その作品は限りなく静謐で、率直で、無骨だ。「捕えられ、誇張されたある一瞬」がしっかりと組み上げられ、女性の肉体の熱や汗を描き出す。そんな非常にパーソナルで内省的な彼女の絵画には人間性とブラックユーモアが内在し、キャンヴァスに満ちた緊張感や不安感との間で絶妙なバランスを保っている。
彼女の作品はまた、矛盾にあふれている。彫刻のように描かれた身体はプリミティヴで幻想的だが、シンプルで迷いのない筆使いは、絵の根底に単調さを忍ばせる。描かれた肉体も不完全で、頭や脚がないまま、褪せた色の絵の具が塗り込められた空間に浮かんでいることもあるのだ。分かりやすい解説などは与えられない。ピュアで素のままの身体は、観る者の目に触れるやいなや、跳ね返ってくる。アクロイドは言う。「私はわざと作品にストーリーを介入させないようにしているの。だって興味がないもの。頭や体を想像してもらうのは好きよ。移民やジェンダーについてどういうふうに語るのかなって。でも説教くさくなりたくはないの。自分がびっくりするような作品をつくりたいから」。
アクロイドの作品は、いわばアーティストと観客の間を行き交う感覚の旅のようなものだ。彼女の手がシンプルな線を生み、その線が女性の体を描き出す。そしてその体が、観る者に感触やぬくもり、そして強さを感じさせる。女性たちの体はとても近く親密で、その熱や熟れた果実のような匂い、そして弾けんばかりの女性らしさを想起させる。抱かれた乳房、引き寄せられた膝、守るように、あるいは抱きしめるように曲げられた腕。その絵を観た者もまた、包み込まれ、守られている気分になる。自分の作品を目にした人に一番感じてほしいことは何かと問うと、アクロイドはこう答えた。「私が絵を描くときに感じる喜びを感じ取ってほしいわ。作品や私が選んだ色の中に、私の手を感じてほしい。少しだけ立ち止まって、自分自身の体と作品を結びつけたり、自身の体の中に同じものを感じてもらいたいわ」。
アクロイドの作品はドローイングから始まったのだという。「ドローイングもたくさんするのよ。力強さとか直感的な線とか色とか、油彩の中にあるすべてが、ドローイングからきたものなの。それが最初だったのよ。それがキャンヴァスの上に移動して、あの恐ろしい白い空間を埋めていくのが見えるわ。自分が描いた小さなスケッチを見ると、まるで無意識の自分にアクセスしてるみたいな気がするの。頭の中に突然ひらめくイメージとすごく近いから」。アクロイドの初期の作品は、当時学校で習っていた技術を応用したものだが、現在は、自身のドローイングから油彩作品を生み出しているのだ。そうすることで、作品が「もっと自分に近くなる」のだと言う。「今、私、何も考えずにただドローイングしまくってるの。それが作品の中のすべてよ」。
チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインを卒業してから10年の間に、彼女の作品の主題やモチーフは固まっていき、唯一無二のものとなった。その作品の多くには、手が描かれている。それらは貪欲であり、押し付けがましく、威嚇するようですらある。「あの手には、すごくいろんな意味があるの。卒業制作の頃に現れたのよ。交換留学で1年ベルリンに行っていたんだけど、そのときドイツ表現主義の作家にすごく影響を受けたわ。作品に介在する身体や、直接的でない儀式主義への情熱とかね。そしたら、あの手が姿を現し始めたのよ」。映画監督のルイス・ブニュエル(Luis Bunuel)もまた、アクロイドにインスピレーションを与えたのだという。「彼の映画が大好きなの。奇妙で、おかしくて、ひどくて。その男性的視点が、女性の欲望という概念を拒否しているのよ……。でも、彼は手をシーンに割り込ませるという手法を使っていたの。そのあと、私もその方法を使うようになって、なくてはならないものになったのよ」。
欲望、ジェンダー、そして女性の性にまつわる神話が、彼女の作品のテーマだ。「私の感情に確固として存在する渇望や喜び、不安を目に見えるかたちで表現したいの。母として、女性として描きたいのよ。そういう作品はとてもパーソナルになるけど、この手は意識の中に外的世界を持ち込む手段になるの。観る人を揺さぶる方法ね」。小さな子どもを2人育てている彼女にとって、その手は自らの時間と空間を区切るものでもあるのだろう。「子どもを持つと、体は自分だけのものではなくなってしまう。でもそれは突然今までとは違う機能を手に入れたということでもあるから、素敵で自由にも感じられるわ。私の作品のいくつかは、スタジオに座って、あと30分で子どもを迎えに行かなきゃいけないのに、どうやって絵を仕上げたらいいのかと苦悩する自分の疲れと滑稽さを説明しているものなのよ」。
アーティストとして活動しながら母親業もこなすというこの緊張感には、これからも対処していかなければならない。「女性アーティストと話したり、その話を読んだりするのが大好きなの。彼女たちもどこかの時点で子どもを持つのだけど、経歴は、大きなギャラリーで展覧会をして、男性ばかりのギャラリーでトップになったってところから始まるでしょ。その間はどうしたの?って感じ」。アクロイドは、ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)を例に挙げた。60年代に、ニューヨークのホイットニー美術館で重要な個展を開いたアーティストだ。「でもその20年前から、彼女は同じ場所に住み、2人の子どもを育てていたのよ。40年代にちょっと成功したものの、50年代にはまったく展覧会を開いてないの。だから、その沈黙の期間に興味を持ったのよ。何を思っていたのか? 作品を作り続けられるという自信をどのようにキープしていたのか? 作品について語り合ったのは誰なのか、いつ成功のきっかけが訪れたのか、そのときどう感じたのか。そのことが、彼女の制作意欲をかき立てたのか?」
母親業のほかに、ロンドンからニューヨークへ移住したこともまた、アクロイドの作品を特徴づけ、発展させた。「在宅仕事をするっていうのは、そうしない限りしなかったであろうことを追求し、探求するということよ。それまでとは違った方法を試さなければならなくなるの」。結果として、近年の作品はサイズが小さくなり、より私的なものとなった。「1年ほど、大きな作品をつくりたくなった時期があったけど、小さい作品を見たときに、自分に必要なすべてがあると感じたわ。うるさかったり大げさすぎたりしないのが好き。だからこそ力強いんだと思う」。
〈米国家族計画連盟〉と名づけられた彼女の最近のプロジェクトは、規制への陽性作用であり、政治に対する絶望への反応でもある。「アメリカ先住民やバビロニアの女神を題材にした、8つの小さな絵を描いたの。女性が持つパワーと力強さを賛美すべく、完全に女性のみを対象にすることで、人間性の始まりを思い描きながら。(大統領)選挙後1週間で作品を売りに出して、売り上げの半分を米国家族計画連盟に寄付したわ」。それらの作品が完売したのち、新年、そしてLAの新しいギャラリー〈ハイド〉での個展に合わせ、さらに8枚の絵を仕上げるべく、アクロイドは制作にとりかかっている。「新しい作品は、リルケの詩『古代のアポロのトルソー』の翻訳をベースにしたものよ。頭のない裸の男の絵と合わせて、立体にも挑戦しようと思っているの」。
絵画作品のほかに、今度は体全体を使った立体作品制作にも踏み出すようだ。手足や線に、新しい感覚的な解釈が生まれることだろう。「陶芸についてはずっと考え続けてきたの。立体作品をたくさん見て、それをもとに絵を描いたわ。ニューヨークに移って、下の娘が生まれてから、娘をバギーに乗せたままメトロポリタン美術館に行って絵を描いたの。今の女神のシリーズも、立体作品から描いているのよ。一次資料として立体作品を使うと、圧倒的な存在感、還元的で美しい色をまとったその何かから、確固とした線が見えてくるの。もっと活用してみたいわ」。
身体の感覚、その重み、そして身体が導き出すすべてのもの。山積した課題、歴史、アーティストの手によってキャンヴァスに描かれるというフィジカルな転移。彼女の作品には、そのすべてがある。「女性を描くとき、それは直接的なもので、自分自身を切り離すことはできない。描いているときはその体を感じるわ。乳房、手、尻を感じるの。物理的にね。しばらく女性を描かない時期があったのよ。女性の裸体をテーマにすると、何かを意味させなきゃいけないように感じたから。そのために何かしなきゃいけないとか、曖昧になれないとかね。身体は脆くもなるけど、力強くもなれる。私はそれを軽んじたくはないの」。