オウダ − またはウダ・ベンヤミナはフランスの社会と忘れられた若者について伝えたいことが山ほどある。今年に入って初め、彼女はカンヌ国際映画祭にて名誉あるカメラドール賞を受賞し、スポットライトを浴びることになった。 – そして、それ以来、ジャーナリストたちは彼女の受賞作品『Divines』に対して、フランス語で郊外の意味である“banlieues(バンリュー)” に因んだ映画と決めつけた。
そのことに対し、ウダはもどかしさから薄ら笑いを見せる。実のところ『Divines』は必ずしもフランスの郊外の話だけではなく、むしろこの映画は、そこに住む若者たちの小さなグループについての話なのだ。歴史的にフランス映画は、郊外をモノクロームに描いてきた。Mathieu Kassovitz(マチュー・カソヴィッツ)の『La Haine』やAbdellatif Kechiche(アブデラティフ・ケシシュ)の『Blue is the Warmest Colour』を思い出してみてほしい。そこで、『Divines』は彼らの美しい矛盾を唱える:ボディ・ダンスに、目に見えて古びた匂いがしてきそうな主人公Douniaの住む小さなアパートメントと対するような明るいトーンなど。
移民が多く住む団地のコンクリート建造物の一角、Oulaya Amamra(ウラヤ・アマムラ)演じる15歳の少女Douniaは学校を中退、地元のドラッグ・ディーラーであるRebecca、そして後に彼女を導くことになる情熱に燃えるダンサーのDjiguiと出会う。ウダ・ベンヤミナは異なる人生のジレンマを映し出し、キャストたちが描き出す様々なストーリーを通して社会的決定要因に立ち向かう。
あなたの作品は女性の内なる力に称賛しています。ご自身をフェミニストな監督だと思われますか?
イエス・アンド・ノー。主人公のDouniaの言葉にあるように、常に”何かに対して戦うもの”を持っていました。とはいえ、私の作品はフェミニズムだけを取り上げたものとは言えません。私は社会に取り残され、その外れで生きるはみ出しものたちにいつも魅力を感じていて。なので、映画監督になりたいけれど、その夢を叶える機会に恵まれない郊外のキッズたちの手助けとなるよう、団体「1000 Visages」を設立しようと決めました。女性として、アーティストとしての私の目的は不公平な事柄に対し訴え、平等のために戦うこと。正直、少し執着心が強いところもあって……この作品には私自身の人生と経験も映し出されているように感じてます。
あなたが執着しているものは何?
戦うことへの執着。人はみなそれぞれのやり方で戦っていますが、それはフェミニズムや階級の問題を超えるものです。戦うことに性別や階級なんて存在しません。
ということは、あなたの作品は政治的なもの?
確かにそうです。私は自分の作品に政治的なものを映し出し、それはアートとして私の義務だといつも言っています。私にとって映画は政治的な役割を持つツールであって、厳しい環境から逃げるために映画を作るのです。
精神的な要素もそこにはありますか?
政治問題と精神は常にセットで作品に存在します。政治は一般的な問題として、精神性は個人の問題として存在します。私は政治的に映画を制作するとともに、映画には不公正な事柄を訴えかけたり、新たな視点を提案する力もあります。芸術は宗教という形にも成りえるのです。『Divines』ではそれが顕著に表れていて、特にDjiguiという役柄は、芸術という精神的なものの表れとしてみることができます。
Djiguiを演じたKevin Michel(ケビン・ミッシェル)は素晴らしいダンサーですね。あなたは彼の役柄を通して身体の強さとセンシュアリティを映していますが、ダンスとあなたとの関わりは何かあるのでしょうか?
『Divines』は私の中に何年も溜まっていた怒りを追い出すひとつの手段でした。映画を撮るという行為は自身を忘れるための一種のプロセス。Djiguiはダンスによって自分の道を切りひらく、ただひとりの登場人物です − アートだけが彼を現実から忘れさせ、怒りを癒す、唯一の手段です。私はこの映画の振付師にNicolas Paul(ニコラス・ポール)を選び、いっしょに、ダンスの精神的な面にフォーカスを当てました − 登場人物たちは感じるがまま、存在するために戦い、殴り合い、踊ります。私は直感的な人間です。そして、時に、体の動きは言葉よりも自分自身を語ります。ダンスは衝動であり、感情であり、そして感覚です。私の物語は言葉よりも身体を通じて伝えられます。『Divines』は”郊外”について語っている映画ではなく、この映画はそこに住む人々と彼らの感情についての話しているのです。
女性の登場人物によってバイオレンスが体現されるなか、男性ダンサーのDjigui,によってセンシュアリティと優しさが体現されます。ジェンダーの境界線に意識的に取り組んだのでしょうか?
暴力もセンシュアリティもどちらかの性の特権ということではありません。− 感受性にはそのようなものはないのです。社会は進化します、フランス映画界も然り、監督たちはジェンダーという新たなテーマにおいて対面しなくてはならない。将来、多くのフランス人映画監督たちが、マスキュリニティ(男らしさ)とフェミニティ(女らしさ)との境について疑問を投げかけることになると私は確信しています。世の中の流れについていきたいのなら、そうせざるをえないでしょう。
ドラッグディーラーのRebeccaは、Douniaのロールモデル的な役柄ですよね。あなたのロールモデルは誰ですか?
パワフルで最高のオペラ歌手のマリア・カラス(Maria Callas)や、アルジェリア戦争中でレジスタンスだった、ジャミラ・ブーパシャ(Djamila Bouhired )は、いつも私にインスピレーションを与えてくれます。ふたりのそれぞれの存在はアーティスト、女性として目指すゴールに達するための手助けとなり、彼女たちの歌や行動は、私のやっていることや経験に対して、誇りを持てと教えてくれるのです。
あなたは、映画を監督する動力源として、イタリア人映画監督のピエール・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)と作家フェルディナン・セリーヌ(Ferdinand Céline)をよく例に挙げています – ふたりともシニカルな人生観考え方をする傾向があったかと思いますが、あなたの作品には喜びとユーモアがありますよね。
私は荒っぽいけれど喜びと個性溢れる環境で育てられました。そこでは置かれている状況から一歩引いて自分自身を見つめ、受け入れることと笑い飛ばすことを教わりました。私の作品の登場人物は自分達のストーリーを距離をとって観察する能力を持っています。多くのフランス人監督が”banlieues”に関する作品を、とても社会学者的な視点で撮っていることに対して、彼らを評価することはできませんが『L’esquive』を撮ったAbdellatif Kechiche(アブデラティフ・ケシシュ)や『La Haine』のMathieu Kassovitz(マチュー・カソヴィッツ)などは、知りもしない現実をドラマティックに描きすぎだと思わざるをえない。私にとっては『Going Places』のBertrand Blier(ベルトラン・ブリエ)のような監督の方が近い存在に感じがします。彼は登場人物をジャッジするようなことはしないし、私は『Divines』を見る人たちがそんな風に感じてくれるといいなと思っています。
フランス語で「Divines」は聖なるものという意味も持ちますが、あなたにとってspritualityが持つ意味とは?
精神は私たちを突き動かします。それが宗教であれ、スーフィズム(Sufism)、ダンス、彫刻、音楽、劇、映画、愛 – 何であっても、きのうより美しく幸せだと感じさせてくれる全てのものにおいて。『Divines』では、それは友情や恋愛物語というカタチで表されます。精神とは何か空気で感じるもので、どこにでもあって、すべてのものに存在しているもの − 形はないけれど、あらゆるものになりえることができるもの。あなたが何者でどこから来ようともそれは在るもの。