アイリーン・マイルズ(Eileen Myles)は、現在67歳。彼女は、詩の世界においてもっともセレブリティに近い存在だろう。いわゆる“男らしさ”の要素を臆することなく前面に出したレズビアンであり、また極められたエレガンスが特徴の作家でもあるマイルズ。1994年に出版されクィア文学の歴史を変えた『Chelsea Girls』が再版されたことで、近年になってまた新たな読者層を得ている。また、Amazon.comでストリーミング配信され、エミー賞やゴールデン・グローブ賞などを立て続けに受賞したテレビ番組「トランスペアレント(Transparent)」には、マイルズをベースに作り出された重要人物が登場する。番組のクリエイターであるジル・ソロウェイ(Jill Soloway)曰く、マイルズは恋人である以上に、ミューズなのだという。しかし、現在の賞賛以前にも、マイルズはすでに100人分ほどの人生を生きてきた。90年代初頭には、男性ばかりだったアメリカ大統領選に、“女性であることを公表している”唯一の候補として出馬し、一方で既に20冊を超える刺繍や小説、批評本を出版していた。「すべて手に入れたい」とマイルズは『The New York Times』紙に語っている。「ささやかな変化なんかいらない。徐々に訪れる変化なんか——そんなものは変化として認めない」と。
朝早くに起きて机に向かい、詩や小説を書き進める、孤高のカウボーイ的生活を送っている——誰もがあなたをそんな風にイメージしていますが、実際のあなたはどうでしょうか?
まったくそんなことはない。わたしはもっとまとまりのない無秩序な生活を送ってるの。自分がいま何に取り組んでいるのかが自分の中ではっきりしているときには、書くスペースを作り出して、作品作りに邁進するけれどね。生活に決まったリズムがあるのは好きだし、そういう生活を送ることもできるだろうけれど、わたしはなんでも先延ばしにする癖があるから、カフェのような場所に自分を押し込めることで、書き物に集中できるよう自分を仕向けたりする。それに、わたしは様々に違った類いの書き物をする——詩を書いたり、小説を書いたりね。作家になっていなかったら狂っていたと思う。書かないという選択肢は、わたしになかった。
ということは、あなたが形式を替えていつでも何かを書いているというのは、置き換えの行動ということになるのでしょうか?
そうね。ジャーナリズムの視点からも書くし、アートについて書くこともあるしね。すべてに何かを感じて、いつでも何かを書いているという感じ。今日は、新たに『Chelsea Girls』の脚本を書いているの。Amazonから、「映画にしよう」という話があってね。
脚本を誰かほかのひとに書いてもらうという選択肢はなかったのですか?
Amazonに話を持って行こうと提案してくれたのが、これまで『I Love Dick』や『トランスペアレント』をプロデュースしたトップル(Topple)だったから、引き受けることにしたの。Amazonには、「原作者と映画を切り離さない」という強い思いがあるし。一年間、『Chelsea Girls』映画化のアプローチを進めるなかで、会議室で何度も担当者たちを前にプレゼンテーションをしてきたから、慣れてしまった。それはもう、わたしにとって、パフォーマンスを披露したり、教壇に立ったり、朗読をしたりするのと同じ。あらすじや企画概要を書いては練り直してを繰り返して、ようやく脚本を書けるという段階になったんだけれど、6ヶ月間、物語そのものには関わってこなかったから、今はディテールを思い出して作り上げていこうと、散文形式で思いついたり思い出したりしたことを書き留めているところ。
『Chelsea Girls』にはあなた自身が多く反映されていると思いますが、改めて読んで、「もうこの物語は自分にとって過去のもの」と思ったことはありますか?
あの作品は、書き終えてから今現在においてもわたしにとって常に面白い存在。Amazonとの縁もあの本のおかげだし、Amazonとの縁があって、こうしてまた読むことになったしね。読むのは大抵が同じ箇所ばかり。今、それを脚本にしていく過程で、様々な新しいアイデアが浮かぶの。あの本にもともと書かれていることは、わたしの人生を完全にベースとした部分もあるし、わたしの半生で起きた出来事からインスピレーションを受けて書いた部分もある。実際にわたしの半生で起こりはしたけれど、本には書かれなかったこともたくさんある。そういったことを脚本に織り込んでいけるのは、元となるあの本を書いたわたしだからこそできること。
いつでも様々な形態で書き物をしているあなたですが、今後はテレビ番組の撮影現場で詩を書いたりするかもしれませんね。
そうね。詩というのは不条理なもので、わたしが「こんなことしちゃダメだ」「いま目の前で起こってることに集中しなくちゃ」と思えば思うほど、わたしの中に生まれてきてしまうものなの。
前触れもなくひらめいて、それを家に帰ってから書くのですか?
そう。そして、完全な形で浮かぶときもあれば、単語やフレーズだけが浮かぶときもある。
一気に数ページを書き上げてしまうものなのですか?
そういうときもある。去年の5月にひとつ詩を書いたんだけれど、それはおそらく去年書いた中で最高の作品だった。詩は、良く書けていれば書けているほど、発表の段階で奇妙なことが起こる。『The New Yorker』誌はこれまで、わたしの作品を一回だけ掲載してくれたことがあるんだけれど、もっとたくさんの作品を掲載してくれたみたいに振る舞って、イベントなんかに協力するようお願いしてきたりするの。だから、その作品を『The New Yorker』に掲載してもらおうと思ってコピーを渡したら、夏の間ずっと寝かせておいた挙句、掲載しないとの答えが返ってきた。『The New Yorker』はその後、ものすごく保守的なひとたちが書いたクズみたいな詩を掲載していた。そこで、『New York Review Books』に持ち込んでみたけど、彼らも答えは「ノー」。『Granta』や、他いくつかの媒体も掲載を見送ったわ。詩の専門誌に持ち込めば、掲載してくれることも、たくさんの原稿料をくれることも分かっていたけど、『The New Yorker』を手に取るような一般読者層に読んでもらいたいという気持ちがあってね。そんなとき、高校時代の友達から連絡が来たの。唯一『The New Yorker』が掲載してくれた作品を読んだらしくてね。普段は詩なんかと無縁の生活を送っているひとたち。今の時代、そういったことって、もう起こらないのかもしれないわね。
詩との出会いは、大抵の場合、そのようなきっかけで生まれるものですね。
そう。雑誌を通してね。『The New Yorker』なんて、その最たる存在だったのに、残念ね。
高校生活について教えてください
カトリック系の高校で、最悪だった。保守的で、小さな学校。わたしは悪い生徒だった。本当に、わたしにとって最悪な時期だったわ。
ただ素質を見出してもらえないだけで、本当の中身は素晴らしい生徒だったと思いますか?
わたしはバカな学校に通わされている頭の良い子供だった。その学校は、子供を“頭が良い”かそうでないかで判断するようなひとたちの集まりで、もし頭が良くないと判断されれば見放されるような学校だった。ジェンダーの問題だったんだと思う。わたしは悪い女の子で、がさつで、クリエイティブで、おちゃらけていたから、悪いことばかりしている悪い生徒と思われていたのね。わたしが頭脳明晰であることは知っていただろうけど、わたしが悪いことばかりしているから、褒められなかったんだと思う。
女子校だったのですか?
いや、男女共学だった。でも最悪だった。廊下で、「女子はこっち、男子はこっち」って並ばされてね。廊下では話してもいけなかった。あれは高校生活とはいえない。いかにもカトリック的な、抑圧の空間だったわ。
今になって振り返ると、当時のあなたは女の子を演じることに反抗していたと感じますか? それとも、降伏せざるを得ない状況にあったと思いますか?
降伏していたところもあるかもしれない。アルコールに助けられていたところはあったと思う。当時のわたしは、自分がどこか間違っているんだと感じていたの。わたしが育った家は、二世帯が暮らせる建物になっていて、うちが家主、下の階にはレズビアンふたりが住んでいたんだけれど、このふたりがとんでもないアル中でね。アル中であること、レズビアンであることを、いつもお互いに罵り合っていた。だからわたしは、レズビアンという性があるということも認識していたし、いわゆる“男性性”というものが滲み出ている自分も、いわゆる“女性”になりたくないという欲望を感じている自分も、間違っているんじゃないかと感じていたの。
女子と男子が分けられて廊下に並ばされたとおっしゃっていましたが、「自分は向こう側の人間だ」と感じていましたか?
ただ、自分は男なんだと感じていたの。着る服から何から、男子という存在が自分にとって自然だと感じた。外へ出かける兄を見ながら、「なんで自分はこんな服を着なきゃならないんだろう」と思ったもの。わたしがまだ若い頃に亡くなってしまったけれど、父はとても寛容で、自由なひとだった。すごくクィアな存在感のひとだったの。だから、父が生きていたころのうちには、性の流動性みたいなものが当たり前のようにあった。父が亡くなってしまったときにわたしが感じた感覚は、おそらく孤独や疎外感だったと思う。だから、わんぱくな男の子みたいな自分こそ変わらなかったけれど、学校では男子の注目を浴びるような女の子たちと仲良くするようになった。でも、中学ぐらいのときは、ジェンダーのスイッチを自分の中で切り替えるような感覚で、「女の子としても通用する」と思ったのを覚えてる。50年代や60年代には女の子なら誰でもパーマをしていたから、わたしも女の子の友達に勧められてパーマをあててみた。8年生になる頃にはファッションも変わってきて——そんな時代の流行を取り入れていたことと、そこに自分の成長も相まって、周りからも綺麗と言われる容姿ができあがっていった。子猫みたいに怯えてもいたように思うけど、男の子たちが綺麗だと言うんだからそれでいいか、とも思っていたわね。でも、そこにお酒を知ることになって、お酒を飲んでいれば自分が感じている違和感から目を背けることもできるようになった。同時に、女の子を演じるというパフォーマンスには影響が出てきたわね。お酒さえ飲まなければ、きっと誰もが振り返るような綺麗な女の子になっていただろうと思う。
今はお酒もドラッグもやらない。やめざるを得なくてやめたけど、アルコールとドラッグはわたしの言葉世界を大きく広げてくれたし、自分のセクシュアリティを知るうえでも、ストレート女性を演じるうえでも、のちに男性を演じるうえでも、大きくわたしを助けてくれた。ドラッグを知って、そこで初めてレズビアンとして生きる可能性を見出せたの。そこに生まれた、レズビアンとしての生の衝動は圧倒的だった。
名前を変えようと思ったことはありますか?
もちろん。苗字は変えないけど、名前は変えたいと思った。
現実の自分よりも少しだけ輝いていて、少しだけすごい人間でありたいといつも思っていた。
自分が描かれている『トランスペアレント』を見るのは嬉しかったですか? それとも、あれはあなたではなかったのでしょうか?
あれはわたしというわけではないの。でも、あのキャラクターは、面白くてコミカルで、ポップで、楽しかったわ。レスリーを演じたチェリー・ジョーンズ(Cherry Jones)とは仲良くなった——けど、あれはわたしじゃないの。
あなたよりも20歳以上若いひとたちが、広くあなたの作品を再評価する動きが見られます。あなた自身もそれを感じていますか?
ひしひしと。
突如、世間の注目が集まっていることに関して、あなた自身はどう感じていますか? たくさんのお金が入り、これまではできなかったことができるようになったなど、変化はありますか?
今わたしに訪れている成功は、勇気、スペース、そして必要なだけのお金をもたらしてくれている。大金持ちというわけじゃないけれど——これまではせき止められていた水流が放たれているような感じ。もう人前で教えたりしなくていいんだ、わたしは何かを成し遂げたんだと実感した瞬間があったの。自分が受けている恩恵をありがたく思いながらも、断るべきことには「ノー」と言えるだけの自信を持っていなくちゃと思う。バンドみたいに、数ヶ月もの間、好きな朗読やツアーで旅をして、終わったら数ヶ月休む——そんな理想の働き方を、今の自分はできる状態にある。だから、自分が必要とするプライベートの時間は、無理してでも自分に与えてあげなければならないの。テキサスに家を持っていて、そこに犬を一匹飼っているんだけれど、若い作家たちにそこへ行ってもらい、家と犬をみてもらってるの。そこにいるときには、うちで好きなように暮らしてもいいよ、ってね。わたしも、彼女たちぐらいの年齢のとき、“ハウスシッター”をやらされたことがあって、そこでひとりきりになったからこそ色々なことを考えられた。どうすれば安く生活することができるか——その知恵さえ自分のものにできれば、あとはすべて自分の自由な時間だった。その時間をうまく利用して、自分の生命力を養うことを学んだ。わたしには野心があって——カトリックだという違いこそあるけれど——わたしと名声の間にある関係性は、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)と名声の関係性と似ているの。現実の自分よりも少しだけ輝いていて、少しだけすごい人間でありたいといつも思っていた。だから、そういう自分を演じるようになった。自分が詩人だからといって、それを仕事として生活していけないなんてことは絶対にない——そう信じて、詩人を仕事として生活している自分を演じるのが大切だと思う。それを実践して、10年ごとに、アート系作家として生きてみたり、パフォーマンス・アーティストとして生きてみたり、大統領候補として生きてみたりと、新たな自分を作り出していったの。とはいえ、詩がわたしにとっては存在の核の部分。詩人であるということから、ほかのすべては派生しているの。
あなたが書いた一節に、「誰もが期待し、わたしもそれを必要としているからこそ、わたしの大きな犠牲は存在している。わたしは崖から飛び降りてしまいたくなるほど、根っからのレズビアンだ。そして、詩の象徴となり、“お金なんていらない”などと自分に嘘などつくのはやめて、金を稼いでやる——そんな粋な詩人でもある」というものがありますね。そういうことでしょうか?
そうだと思う。それと、あれは、ギリシャの女性詩人サッポーが男性に拒絶されて崖から飛び降りたというヘテロセクシュアルの物語にかけた冗談でもあった。80年代、わたしはセント・マークス・ポエトリー・プロジェクト(St. Marks Poetry Project)のディレクターを務めさせてもらってね。おそらく正気の人間ならあそこで支払われていた報酬なんて誰も“報酬”だなんて思わないであろう薄給だったけれど、それでもあれがわたしにとって初めて大人として仕事をさせてもらう機会だった。あの頃にちょうど初めてクレジット・カードを持つようにもなって、「いま、自分は新しい世界に生きているんだ」と実感したのを覚えてる。
ニューヨークのイースト・ヴィレッジでのことですか?
そう。イースト・ヴィレッジはわたしの心の故郷。
故郷のように感じるのですね。
そう、故郷。買ったわけではないけれど、今でも当時と同じ場所に住んでいるの。家賃も上がらないしね。小さなアパートだけれど、良い場所だし、家の正面には、ニューヨークで最古の墓地もある。
死が常にそこにあるのですね。
そこにはいつでも死があって、そこにはいつでも鳥や木やリスが生きている。そして、そんな環境が好き。10年に一度は墓場の修繕をしに出るんだけど、何かを直すというより、掘る作業のほうが多いかもしれない。これからもずっとあの環境が失われなければいいと思う。
40歳を過ぎるころ、人生の折り返し地点に差し掛かった実感とともに、「人間の命には限りがある」という真実が意味をもって迫ってくる——そんな気づきというのは誰にでも訪れるものなのだと思いますが、2016年には、それまで育まれてきた文化が奪われるような出来事が重なり、誰もが「命は永遠のものではないのだ」と気づかされました。そんな背景も踏まえ、あなたはまた、死について深く考える新たな段階にいると感じていますか?
死についての考え方は変化する。どんどんと現実味を増していくから。仕事の面にもそれは影響をおよぼして、「いつでも自分が信じるものを作っていよう」と思うようになる。変な話で、わたしは若い頃に戻りたいなんてまったく思わないけれど、でも自分がこれからできることには限りがあるんだという現実にひどく落胆したりする。「なんであれをやっておかなかったんだろう?」と思うものが、やはりあるの。
わたしは青春時代を無駄にした——そういうことよ。
焦点を定めて生きているように思えますが、今後はどんなプロジェクトを計画しているのでしょうか?
明確に何かを作り出していると実感できるプロジェクトに身を捧げるタイミングを見計らっているの。もしも今回の脚本で監督を務められないなら、いつか監督をやりたい。今回の脚本は誰か他の監督が作ることになるだろうけれど、次の脚本はわたしが自分で監督して映画にしたい。本もたくさん出していく。次に本としてまとめる詩は、すでに書き上げているの。今はアンソロジーを作っていて、これはほとんどが編集の作業。旅行記として書いたエッセイ集も作っているんだけれど、これは他の要素とも合わせて新しい何かを作りたいと思ってる。それと、ドラマの要素もコメディの要素も含んだ、フィクション仕立てのテレビ番組の企画を進めてる。詩人の人生を書いたものよ。大切な書類やなんかと一緒に箱に入れたまま、失くしてしまったのか、どうしても見つからない本があって、それがわたしの人生にちょっとしたゴタゴタを起こした——そんな実際のできごとをひとに話したら、「それ、書きなよ。あなたが書かないなら、わたしが書くわよ」って言うから、それを書こうと思ってね。
その箱は見つかりましたか?
見つからないの。いずれ見つかると思ってるし、霊視ができるひとたちからは、「すぐ近くにある」って言われてるんだけれどね。失くしてしまったということは絶対にないけれどね。わたしのアパートの中にもないし、ストレージにもない——もしかしたら昔の恋人の家にあるかもしれないんだけれど、彼女は「うちにはない」って言うし。霊能者のひとりが、「僕は探し物がどこにあるかまでは見えないけれど、見れるひとを知ってる」って言うの。その霊能師が、紹介してくれるらしいわ。
「見つけ出すためなら、使えるものはなんでも使う」という理由で霊能師の力を借りているのですか? それとも、これまでに霊能者に助けてもらった経験があるのでしょうか?
霊能者の能力にも興味があるし、彼らに、できることとできないことの境界線があるということがとても興味深いと思う。
迷子の箱について訊いたということは、今後の人生や、恋愛関連の質問などもしたのですか?
もちろん。会った霊能者はそれぞれにとても明確な助言をしてくれた。
霊能者たちの助言には従ってきましたか?
霊能者たちは、わたしがすでに生活のなかで従っているわたしの内なる衝動に同調して、すべてをを見ているんだと思う。彼らの助言は、主に、距離を置いたほうが良い人物たちに関する警告。土地的な助言もしてくれるんだけれど、霊能者の誰もが「南米に行くといい」って言うの。スペイン語を習って、南米を長い時間かけて旅したい。南米旅行だなんて、想像するとワクワクする。メキシコ以外には行ったことがなくてね。中南米から南には行ったことがない。
無秩序な生活環境だとおっしゃっていましたが、お話をうかがっていると、あなたはとても戒律的に、エネルギッシュに活動しているように思えます。毎朝、起きて、意気込んで作品作りにかかっているような……?
まったくそんなことない。でも、今日は朝起きてから「やるぞ」と書き物に取り掛かった。大胆な気分になって部屋の整頓をしたら、脚本を書く気になったから。先週はロサンゼルスで一週間、クラスを教えなくちゃならなかったんだけど、これが素晴らしい一週間だった。最近はほとんど教えることをしてこなかったけど、やっぱり教えるのが好きなのね。教えていると、詩というものと一体になったような感覚が得られる。クラスを教えて、ジムに行ってトレーニングをして、脚本を書いて——それこそが“完全な自分”という存在のように感じられて、最高の気分だった。それからニューヨークへと戻って、友達と会って映画を観たりして過ごしている。自分のアパート、自分の家でゆったりと過ごしたくて、脚本には一切手をつけなかったわ。リラックスしていいときを見極めるのは難しい。クリエイティブでいるには、時間をたっぷりと無駄に過ごさなきゃいけないんだとわたしは思う。
腕に生えている毛を見つめ続けて一日を過ごしてしまったりすること——そうやって、物事の細部を見つめるというのは、とても大切なこと。わたしは青春時代を無駄にした——そういうことよ。