彼女のペインティング作品は、どれも繊細に作り上げられている。木製のキャンバスには深く気高い色彩が溢れ出すように施され、そこに彼女が自ら作り出した画材で描かれる力強い線が走る。巨大なペインティング作品では、彼女は筆の行き先こそ想定しはするものの、そこに彼女が加えるのは衝動の勢いのみで、結果として描かれる絵は彼女の力と絵の具の質感がぶつかって生み出されるものだ。そこにはエネルギーのエッセンスが浮き彫りになる——そしてそれは、目の前にひとが立ち、見て感じることで、初めてエネルギーのエッセンスを含んで力を持つ。
「描く」という行為と、それがもたらす結果が、ヴェルディエの「線」だ。絵の具がキャンバスに触れる予測不可能な衝突の瞬間は、過去と現在を同時に封じ込めているように感じられる。彼女の作品には、そんな相反する要素が多く見られる——コンテンポラリーでありながらも原初的で、無の境地のように静かでありながら大きなエネルギーを感じさせ、シンプルでありながらも複雑なその作品世界を前に、私たちは筆の勢いに飛び散った絵の具や、まるで電流を通して光を放つフィラメントのように動きを感じさせる線に、思わず見入ってしまう。
ヴェルディエは中国で10年の歳月を過ごし、書道を学び、東洋の世界観に見る自然のフォルムを追求した。最近ではアメリカのジュリアード音楽院とのコラボレーションを果たし、聴覚と視覚に訴えるアートでハーモニーとリズムの相互関係を探るなどしている。「Walking Paintings」、そしてジュリアード音楽院とのコラボレーション作品「Rhythm and Reflections」は、ロンドンのギャラリーWaddington Custotにて2017年2月まで公開されている。
A film by Ghislain Baizeau © Fabienne Verdier Studio
若くして画家を志したそうですが、その情熱を知るきっかけとなった出来事、そして抽象派アーティストになるきっかけとは、一体なんだったのでしょうか?
離婚して引っ越した先がロダン美術館だった父は、2週間に一度わたしたち兄妹を美術館に連れて行ってくれました。そこでアートというものを知りました。両親の離婚はとても悲しい出来事でしたが、アートが私に想像力を生み、現実逃避の手助けをしてくれました。そういった世界、アートが見せてくれる宇宙のようなものが、私には今でも絶対的に必要なのです。アートを初めて教えてくれたのは父で、私は象徴的・比喩的な表現というものを学びました。8歳になると、父は視点、遠近法、それらを用いて絵を描くということについて教えてくれました——でも私はそういったルールを否定して、父をひどく怒らせました。父が教えようとしてくれていたことは、絵の中にリアリティを生む際に基本中の基本となるルールだったわけで、だから父はそれを否定する私を怒ったわけですが、私にとってはそれがリアリティを生む要素ではないように感じたんです。父は私に「間違ってる」と言いましたが、私は自分の直感を信じました。
では、あなたにとって絵にリアリティを生むものとは何なのでしょうか?
比喩的な表現手法は、私にとって「死」のようなもの。私が情熱を持って興味を抱いているのは「生」です。絶えず動いていて、予測のつかない流れのような、命ある存在なのです。アート・スクールの先生たちは授業中の私が退屈しているように見えると言い、たしかに退屈していた私はそれを認めました。すると先生たちは、「君にはアジアが合っているかもしれない。アジアに行ってみたらどうだ」と勧めてくれました。
その後10年間、中国に暮らしました。辛かったけれど、かけがえのない経験を積むことができました。それからフランスに戻りましたが、ヨーロッパ文化を再発見したような気がしましたね。レンブラント、ターナー、ビクトル・ユーゴーといったヨーロッパ芸術に改めて触れ、触発されて、そこからそれまで私が教えられてきた既成概念を破壊し、脱構築して「わたし」という独自のアプローチを築いた感があります。今ある私の作品世界とは、ふたつの文化の融合によって生まれているものなのだと思います。
東洋美術はどのようにあなたの作品に影響を与え続けていくのでしょうか?
重力など自然の力を絶対的な基盤に、縦に続く世界を軸とした考えの東洋美術のあり方に、私は生涯を捧げようと心に決めました。研究を重ねれば、そこに新たな抽象言語を見出すことができるんじゃないか、と——ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)やジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)が見つけた言語の延長線上にあるものではなく、自分自身の抽象的言語をね。独自の画材を作ってみたりもしました。筆の肢の部分を取り外して自転車のハンドルに付け替えてみると、それで描いた線には余白の中でスピード感ある風合いが生まれました。最近では筆の構造そのものを脱構築して考え、筆が描く線の内側を再現するじょうごを作り出してみました。大きなキャンバスの上を歩きながら絵を描くという行為は、私に全身と全感覚を使うことを要求する、まったく新しい創作体験です。表現とエネルギーの新しい言語のように感じますね。
ジュリアード音楽院からの声掛けでミュージシャンたちと実験的作品を作られましたね?
ジュリアードは、研究所のようなものを作り出そうと考えたんです。そこで最初に呼ばれたビジュアル・アーティストが私だったんですが、スランプのように辛い試行錯誤の連続のプロジェクトではあったものの、最高の体験となりました。最高のミュージシャンたちとともに作品作りができました。最初の数ヶ月は、彼らも私もそれまでに教わってきたことや慣れ親しんだアプローチを忘れることができず苦しみましたが、作業を続けていくうちにわたしたち全員で共存の状態を作り上げることができました。お互いの息遣いを感じて、そこに生まれた衝動の流れに身を任せることができるようになったんです。私が30年間にもわたり信じて疑わずにきた「ハーモニックなライン」というもの、そしていつのまにか出来上がっていた“私流”の美の形や構造というもの——ジュリアードのミュージシャンたちとひとつの空間に身を置き、目を閉じて彼らが生む音を聴いていると、「音」という存在のまったく新しいビジョンがそこに開けてきました。新たな構造とでもいうべきものが、私の脳裏にひらめいたのです。そこに、新たなフォルム、新たなダイナミズムを発見しました。あれは私のペインティング作品制作の歴史における革命的出来事でしたね。
ミュージシャンたちは、私に「呼吸と筆使いで音のリズムというものを感じてみて」と促してくれました。実践してみると、今でも信じられませんが、私の意に反して、そこには川や石など、現実世界にある物体が形として描き出されたのです。そこに「私」というものはもはや無く、ただリズムを通して現実が生命を持って踊り出したように感じられました。
ミュージシャンたちもまた、あなたと同じく、音世界の変化を体験したのでしょうか?
そうなんです! 静寂のうちに、私たちは実に多くのものを共有し、共鳴し合いました。私は孤独のうちに作品を作り上げる画家で、私がコラボレーションをしたミュージシャンたちは私という宇宙に秘められていた体験の記憶、私自身も知り得なかった体験の記憶を解き放ちました。私は蓋をしていた記憶を思い出し、彼らミュージシャンたちはそこから音に新たなダイナミズムを生むに至りました。彼らは、心を開いてリスクを負うことを恐れがち——新たな言語を生み出すことを躊躇しがちです。ダイナミックな筆使いに「リスクを恐れず進んだ先に見えるもの」を目の当たりにした彼らは、そこにまだ見ぬ未開の領域を探索してみるきっかけを得たようです。
あれは真のコラボレーション体験でした。私たち全員が全身を使い、人間が持つすべての感覚を使って作品作りのプロセスを生きたのです。今でも私たちにはあのときに起こったことをうまく理解できません——そこには、私たち全員が、深く、根源的な何かを共有し、共鳴し合った確かな感触がありました。言葉などひとことも発さずに、私たちはお互いを完全に理解できていたのです。あの共体験が私を変え、彼らを変えました。神経科学者にでも、一度話を聞いてもらいたいですね。
次なる段階は? 今後はどのように自らの限界を押し広げていこうと考えていますか?
ニューヨークにまた戻りたいですね。ニューヨークには、フランスにはないオープン・マインドの精神がある。スタジオを立ち上げて、ミュージシャンたちとの実験を続けていきたいです。そして、自分の五感をより豊かに育んでいきたい。今は、バリトンなどオペラ歌手の声や、ジャズの即興、バロックに強く惹かれています。私の作品に関しては、見る者に衝撃の理解をもたらすようなものを作りたい——禅僧の存在を前に、何かを閃き、理解してしまうような、そんな瞬間をもたらす作品をね。私の作品は抽象主義的なアプローチによって生み出されていますが、私はそこに何かを必ず見出してほしいとは考えていません。私がそこに描いているのは「生命の香り」のようなもので、それは感じるひとは感じるし、感じないひとは感じなくても良いものだと私は信じています。隠れたものをそこに捉えたい——私がそこに表現したいのは、「不安定な状態を恐れないで。それこそが人生というものであり、生命とはそういうものなのだから」ということです。