『Future Sex』を書いたとき、エミリー・ウィット(Emily Witt)は30歳のストレート女性——独身になったばかりの作家だった。悲しみに暮れていた彼女だったが、「悲しむ私にみんなも飽き飽きしているだろうし、わたしもこんな自分に疲れた」と気づいた。多くの友人同様、彼女もセックスはしていた。友達の紹介もあったし、インターネットでの出会いもあった。それ以上の関係に発展しそうなものもあれば、セックスだけの関係もあった。言葉ではうまく定義づけができない関係——当事者たちは明確に言葉にして関係を確認したが、言葉にした途端に違和感を感じさせた関係——彼女はそんな生活を、刹那的なものと考えていたという。「そういった性体験は、いずれ終点にたどり着くもの——ディズニー・ワールドのモノレールが、いずれは終点のエプコット・センター駅へと滑り込み、そこで夢の世界が終わるように」
ある日、エミリーはブルックリンの診療所を訪れた後、自身が“一時的な状態”と呼んだそんな刹那的関係を繰り返した時期の自分を、“故意に選んだ状態”へと昇華させることを決意した。どのように昇華させたのか——彼女の後にも先にも、これまで多くの女性がそうしてきたように、西へ向かったのだ。そう、何をしても自己責任で良しとされ、皮肉めいて”ライフスタイル”と言われることもない街、カリフォルニアへ——カリフォルニアで、エミリーは、インターネットの存在が当たり前となった世の中における女性のセクシュアリティについて探った。そして、5年間におよんだこの調査が、『Future Sex』という一冊の本にまとめられた。
“誰かの彼女”という存在の状態になかったエミリーは、現代女性のセクシュアリティを、ときに傍観し、ときに自ら実践して探った。フリー・ラブなどというものは、現代においても存在するものなのか? インターネットの登場によって新たな性革命が起こっているのか? そんな視点からセクシュアリティを探り始めた彼女が、導かれるように行き着いた先は、真に興味深い場所ばかりだった。そのうちのひとつが、アメリカで年に一度開催されるバーニング・マン(Burning Man)だ。バーニング・マンは、1986年にラリー・ハーヴェイ(Larry Harvey)と4人の仲間たちが始めた“コミュニティ社会の実験”で、ワークショップやアート作品制作、パーティ、パフォーマンス・アートの制作・実演などを開催するイベントだが、参加者たちの発案により他にもさまざまな試みが実施され、そこでエミリーは、性的絶頂を体験できる瞑想や、SM映像撮影、ポリアモラス(複数恋愛主義)のひとびとの乱交パーティなど、新たな世界を垣間見ることとなった。あらゆる意味で、『Future Sex』は、現代を映し出している。そして、『The Los Angeles Review of Books』誌から『Playboy』誌にいたるまで、さまざまな媒体から絶賛を浴びている。わたしたち現代女性が自らをどう捉えているかを深く分析しながら、同時に、わたしたちがもっと性の自由を模索し、謳歌することを後押ししてもいる。
ちなみに、エミリーは“愛”を見つけることもなければ、先に挙げたメタファー上でのモノレールで、降りる駅を見つけることもなかった。しかし、彼女はそれ以上のものを見つけた——新たなセックス観だ。彼女が、その新たなセックス観へとたどり着くまでのプロセスについて、そして『Future Sex』がどう彼女の人生を変えたかについて、話してくれた。
特に大都市において、出会いの選択肢が無限のようにある現代というのは、お付き合いの官能的側面を非人格化してしまっていると思いますか?
時代の進化がどれだけ出会いに変化を生んだかについて、世の中は大きく見過ごしていると思いますね。ロマンチックな観点から見れば、恋に落ちるという魔法のような感覚を求めて出会いを探すという行為自体が、どうしようもなく非ロマンチックなものであるわけです。でも、ロマンスというもの自体が、実は企てのもとに成り立っているものであって、それは例えば友達の紹介を介しての出会いだったり、バーで何かを期待したりといった、ある程度計画的なものなのです。
ニューヨークとサンフランシスコでの出会い文化には、どのような違いがあるのでしょうか?
ご存知かと思いますが、ニューヨークにはあらゆる性に対応するコミュニティが存在しています。でも、ニューヨークは概して保守的な街だと思います。少なくとも、わたしが仲良くしていた友人たちは皆、保守的でした。政治的な意味ではなくですが! 自分をさらけ出すということに関して、ニューヨークはお咎めが厳しい街なのに対し、サンフランシスコではひとびとがセクシュアリティに関して積極的に話し、新たな手段でセクシュアリティを表現し、また人生を、悟りへとたどり着くためのひとつの旅として捉える傾向がありますね。
ニューヨークでは、ひとびとがセクシュアリティを皮肉に捉える傾向が強いんですね。私の友達は、お互いと寝たり、付き合っているひとに隠れて外で肉体関係を持ったりする、性的に極めて自由なひとたちです。しかし、そんなライフスタイルをなぜ選んでいるのかについて突き詰めて考えることはしませんでした。誰もそれについて話すこともなければ、それをいかなる性的アイデンティティとも考えてはいなかったんです。それは、“ニューヨークでシングルとして生きている”という存在と考えられる傾向にあります。
あなたが著書で書いている葛藤、そして実際に性的刺激を受ける場面の少なさが興味深かったです。この本を書いたことで、あなたのセクシュアリティにおける姿勢は変化しましたか?
根本的なところから変わりましたね。以前ほどシャイでもなくなったし、セクシュアリティに関して話すことが恥ずかしさを伴わなくなりました。本を書き始めた当初は、セックスとは生まれ持ったものと考え、性的情欲や恋心というものは、起こるときは起こるし、起こらないときは相手がどれだけ魅力的な相手であったとしても起こらないものだと考えていました。しかし、本の執筆を進めていくうちに、ひとは実際にセックスとの付き合いかたを学んでいくもので、また、かならずしも「経験豊富=性体験の数」ではないということが分かってきたのです。セックスを通してひとは“自分とはなにか”を考え、“存在として今の自分はなにを求めているのか”を考え、セックスをすることで“セックスとはなにか”を突き詰めていくものだとわかったのです。それは、セクシュアリティを学ぶプロセスともいえるものでした。
以前ほどシャイでもなくなったし、セクシュアリティに関して話すことが恥ずかしさを伴わなくなりました。それは、セクシュアリティを学ぶプロセスともいえるものでした。
いまお付き合いしているお相手は?
おかしな話ですが、本を書いていた最後の2年ほど付き合っていた男性と、本を書き上げたのと同時期にお別れしたんです。彼と関係を築くということにリアリティを感じていなかったんでしょうね。本を書きながらおつきあいをするというのはとても大変でした。だって、すべてが「これをどう分析して、どんな結論を導き出せるかしら?」ということになってしまうわけですから。わたしは実体験をすべて本で見つめ直していたから、そこにある関係をただそれそのものとして謳歌するというのができなくなっていたんです。
そしてこの夏、また別のひとに出会いました。ただただお互いを愛していて、とても幸せで、近いうちに同棲を始めます。ずっと探し求めて、でも見つけられなかったものが、いま目の前にあるということ——その現実に、当初は躊躇しました。ふたりの関係の外には性を求めず、その関係が発展して結婚へと話が進み、結婚したら次には……という、かつて関係というものに求めていたものを、現在の相手との関係に求めるのを躊躇したんです。たとえば同棲だけをとっても、わたしは今でも懐疑的です。でも、相手の男性も人生をひとつの実験のように捉えているひとで、「誠実さと心の繋がりを関係のベースに」という考えのもと、人生経験を大切にするため、「浮気はしない」をルールにしないひとです。そんなひとと出会えたことが嬉しいですね。うまくいくのか分からないですけどね! なんにせよ、本を書いたことで自分の中に芽生えた自由の感覚を、この関係が生まれたからといって否定したくなかったんです。
実体験で出会った中で、もっともあなたに大きなインパクトを残したひとは?
認めたくはないですが、やはり奇妙でインパクトがあったのは、なんといってもオーガズムへと導いてくれる瞑想をやっていたひとびとですね。あの瞑想で、わたしは、自分がいかに自分の体の中に芽生える感覚を無視してきたかが分かったんです。セックスでも、わたしは自分の感情に背を向けていました。「セックスをしているときに感じる特定の感情があって、一方でセックス以外のときに感じるものがあって」というように、セクシュアリティというものはセックスのときだけ感じるものだと考えていたんです。オーガズム瞑想をする人たちから学んだのは、「セックスをするとき、ひとは選択の連続を生きている。セクシュアリティもまた、世界に存在するという体験そのものであり、日々の生活の中で選択をするという体験」ということでした。
その体験について、あなたは“カミングアウト”の形式を用いて書いていますね?
例のひとつを語る手法として、カミングアウトの形式を用いました。ゲイのひとにとって、カミングアウトはとても重要な意味を持ちます。世界に向けて正直に、自分として生きていくことを宣言する行為ですからね。誰と関係を構築するかということだけでなく、周囲のひとびととの関係についても、世界に向けて嘘がない状態を宣言する行為なのです。
オーガズム瞑想をする人たちから学んだのは、「セックスをするとき、ひとは選択の連続を生きている。セクシュアリティもまた、世界に存在するという体験そのものであり、日々の生活の中で選択をするという体験」ということでした。
作家としての日々について聞かせてください。毎朝、起きたらまず何をしますか?
コーヒーを飲みます。
習慣や癖などはありますか?
書く工程において、「自分が今どこにいるか」にもよりますね。わたしはまったく能率的じゃなく、なかなか書けない人間なんです。書いては捨て、いろいろなことを書き試してからでないと、自分が書き物を通して何を伝えたいのかも見えてこないんです。毎日6時間、集中して書く習慣を持っている作家もいますが、わたしには無理です。わたしにとって、書くというのは、とても時間のかかる、ゆっくりとした、辛く苦しいプロセスです。でも、続けていると書き上げられる。ニューヨークに、ヘンドリク・カーツバーグ(Hendrik Kurtzberg)という作家がいるんですが、彼が以前、「僕は、先延ばしにしてしまう自分が恥ずかしくてしかたなくなったときに書き始める」と言っていました。ちょうど今のわたしはそれですね。あ、それと、ひとりでなきゃ書けません。誰もいない空間でなければ、自意識が邪魔して書けないんです。
どんな空間で書くのが好きですか?
『Future Sex』を書いていた時期はずっと貧乏で、ルームシェアの小さなアパートに住んでいました。良い環境だったら、もっと速く書けただろうと思います。しばらくの間、友人の友人がマンハッタンのアッパーウエストサイドにあるワンルーム・アパートの改装工事を請け負っていたとき、そこで書き物をさせてもらったんですが、テーブルと椅子がひとつずつしかない空間では書き物がはかどりました。インターネットすらない、空っぽの部屋でした。
そのあとに、ベルリンでしばらく暮らしたんです。自分でも借りられるほど安価の物件があったので。この物件もまた、光だけがたっぷりあって、物がほとんどないという理想の空間でした。インターネットもつなぎませんでした。今はブルックリンのブッシュウィックで、壁2面に窓がある、大きなワンルームに住んでいます。ダイニング・テーブルに座って書くんですよ。ある意味で、真にひとりという環境でなければ、わたしは書けないんです。
リラックスするにはどんなことを?
禁欲的なまでに書くモードに入っているときは、ヨガやランニングをしに出かけます。一日中座って書いていると気持ち悪くなるので。一日の終わりに飲みに出かけたり、晩御飯を食べに行ったりもしますね。ベルリンは良かったです——友達がひとりもいなかったので、孤独すぎたという現実もありましたが、外へ出るときにはハメを外すつもりで出かけましたね。書くというのは本当に大変な作業で、プライベートの時間も恋愛関係も圧迫されてしまうものなのです。