ヴォーカリストPhewによる、声・電子・未来

1979年のデビュー以降、ポスト・パンクの“クイーン”として国内外のアンダーグランドな音楽界に多大な影響を与えてきたPhewのキャリアや進化し続ける音表現について迫った。

Phew——ニュアンスに富んだ名前をもつ人だ。多くの人が彼女を知ったのは、パンクロック・バンド、アーント・サリーのヴォーカルとして。あるいは「終曲/うらはら」(’81)や『Phew』(’81)など、硬くのびやかな声と、冴えた詩世界をともなった、先鋭的なヴォーカリストとして。ときに彼女は“伝説”のように語られる。ポスト・パンクの“クイーン”として、アンダーグラウンドの“ディーヴァ”として。けれどそれらの称号に、彼女自身がくつろいでいるようには見えない。21世紀に入ってから、彼女はカヴァー曲集『ファイヴ・フィンガー・ディスカウント(万引き)』(’10)を発表した。エルヴィス・プレスリーや中村八大、寺山修司らの曲である。また「不屈の民」を歌う彼女を見たのも同じ頃、Phew×向島ゆり子がザ・レインコーツのサポート・アクトをつとめたときだ。近過去の歌、その集合記憶のようなものを咀嚼しなおし、現在に配置しなおす。ひとりの歴史家のようだった。その手つきは、小林エリカとのプロジェクトProject UNDARKによる『Radium Girls』(’12)にもかいま見える。原発事故を経験した日本で、放射能、核、原子についての考察が、電子音響と語りによるひとつの作品を生んだ。それからまもなくして、彼女はひとりで電子機材による弾き語りをはじめた。それは作品として『ニューワールド』(’15)やライブ会場で販売される4枚のCDRでたしかめられるが、ライブはつねに即興的であり、そのつど一回限りの磁界があらわれている。かつてテクノロジーの進化は人類に無時間的な夢を見せた。その夢がゆきづまったいま、Phewがつくる時空間とは。

幼少期の音楽の記憶をおしえてください。

 私が小学生の頃、子どもは夜9時になったら寝ないといけなくて、夜の唯一の楽しみはラジオだったんです。布団にもぐって、遅くまでラジオを聴いていました。私は大阪に住んでいたから、桂三枝(現・桂文枝)が司会をしている関西ローカルの番組(「歌え!MBSヤングタウン」)を10時から聴きはじめて、その後に洋楽がよくかかる番組があって、それを熱心に聴いていました。あと姉の影響でビートルズを知って、「ヘイ・ジュード」ですとか、解散する前のビートルズをよく聴いていましたね。姉がアップル・レコードのシングル盤を買っていたんです。なかでもメリー・ホプキンが特に好きでした。アグネス・チャンがデビューした時、髪型とか服装とか、メリー・ホプキンみたいだなって思いました。

最初に買ったレコードは何でしたか?

 小学生の時にザ・タイガースの「世界はボクらを待っている」を買ってもらいました。後から考えると、ボーカルのジュリー(沢田研二)の声が好きだったんですね。音楽の趣味は友達とまったく合わなかったですよ。私は山口百恵や桜田淳子と同世代で、中学生時分は「スター誕生!」的なオーディション番組が流行っていました。高校生の頃はピンク・レディーがすごい人気でしたが、私は歌謡曲には全然興味がなくて、ロックに夢中でした。けど、ロックスターに憧れるということは、なかったです。

 子供の頃は、「舶来」という言葉が、まだ普通に使われていて、舶来品信仰のようなものがありました。デパートには特選品売り場があって、「舶来品」がうやうやしく飾られていましたね。母親はハーシーのチョコレートやレブロンの化粧品を買いに神戸までよく行っていました。父親はジャズが大好きで、ルイ・アームストロングを最前列で見たことを何度も語っていました。戦争に負けた後で、アメリカの消費文化や音楽がすばらしいっていう考えが強かったんだと思います。そんな親の影響を受けていたと思います。私も「洋楽」ばかり聞いていました。

 私が小学生のときは、まだ第二次世界大戦後の雰囲気が残っていましたね。焼け跡がそのまま残っていたわけではないのですが、とにかく親は戦争の話をよくしていたし、戦争の漫画も多かったです。親の友達に広島出身の人や、シベリア抑留や満州から引き揚げてきた人がいて、その人たちの生々しい記憶をよく親から聞いていました。舗装されてない道がたくさんあったし、大阪駅には白い服を着た傷痍軍人が募金の箱を置いて座っていました。数えてみたら、私が生まれた1959年って、戦争が終わってから14年しかたっていないんですよね。2017年におきかえたら、14年前は2003年。つい最近のことですよね。考えたらすごいことだと思います。

戦争の生々しい痕跡と、舶来文化の信仰は、いっけんすると相反する感情を生むように思います。人びとはどのように折り合いをつけていたのでしょうか?

 それを一緒にする力が経済成長だったんでしょうね。小学校4年生のときに大阪万博(日本万国博覧会、1970年開催)があって、ものすごい規模でした。私も行きました。何回も行きました。いま思うと、本当にばかばかしくてね。アポロ12号が持ち帰った「月の石」を見に行ったんですけど、行列が長すぎて見れませんでした。それで、せんい館とか鉄鋼館とか、空いている館をまわりました。だから私はそこで、(ヤニス・)クセナキスや高橋悠治さんの音楽を聞いていたんですよね、記憶には残っていないけど。横尾忠則がディレクションしたせんい館の外観はよく覚えています。途中で工事を止めたような、赤い鉄骨の建物です。

 大阪万博は、あの時代の子どもがもっていた未来のイメージそのものでした。手塚治虫のマンガで見ていたもの、過去から切り離されて突然現れるような未来のイメージです。いまではもうノスタルジーをもよおさせるものですよね。ああいう「未来」の体験は、大阪万博が最後だった気がします。

新しいテクノロジーやメディアにたいして、つねに前向きでしたか?

 18歳頃の私は、デジタルにものすごく夢をもっていました。時計のデジタル表示のものがかっこよく見えたし、はじめてCDで音楽を聴いたときも、こんなに小さい物のなかにたくさんの曲が入るなんてすごいことだと感動しました。70年代から80年代は、デジタル信仰がとても強かったんですよ。でも、テクノロジーの進化にたいして夢があったのは、82年くらいまでだった気がします。これは音楽に限ってですけど、80年代半ばからデジタルな音楽が出てきて、その音に私はすごく失望しました。嫌な音でしたね。音はふつう、鳴るとだんだんと消えていきますよね。でもデジタルの音はぷつんと断ち切れて、無音の状態にいきなり突き落とされる。不自然なんです。いまはだいぶ慣れましたけど、いまだに嫌ではありますね。

 もちろん良い面もあって、たとえば声に関していえば、機材がデジタルになることで、ボーカルはそんなに大きな声を出さなくでもよくなった。ただこれは、人間の能力が落ちていくことでもあるんですよね。私がバンドを始めた頃は設備の整った練習スタジオやライブハウスは、少ししかありませんでした。アンプから出てくる大音量のギターやベース、ドラム、どうやったらこの騒音のなかで自分の声を通せるか、そればかり考えていました。上手に歌おうなんて思ったことありませんでしたね。大声を出すことしか、考えていませんでした。未だにいわゆるボーカルの技術はないに等しいし、身につけたいと考えたこともありませんが。

Phewさんが音楽を始めたのは、どういう音楽体験の延長にあったとふりかえりますか?

 私はロンドン・パンクと同世代です。ロンドン・パンクのバンドを見ていて、立ち位置や姿勢に影響を受けたというか、自分もやらなくちゃという感じでバンドを始めました。ロンドン・パンクの「私たちにはロック・スターは必要じゃない」というメッセージに大変な共感を覚えました。パンクを音楽というよりも運動として受け止めていたんです。音楽的には、ロンドン・パンクのストレートさは好きじゃなかったです。それよりもニューヨークの音楽、テレビジョン、ハートブレーカーズ、ラモーンズが好きでした。バンドを始めた頃は、スーサイドやリチャード・ヘル、イーノ、ダムド、フライング・リザーズ、ドイツの音楽だとカンやクラフトワークもよく聴いていました。

 はじめてミュージシャンのファッションがかっこいいと思ったのがニューヨーク・パンクでしたね。それまでのロックのファッションって……、ねぇ? 「NYROCKER」というタブロイド版の雑誌があって、そのなかにケロッグの広告のパロディがあって、ブロンディのデボラ・ハリーやトーキング・ヘッズのティナ(・ウェイマス)がケロッグの箱を持って写ってたんです。すごくかっこよかった。ごく普通の白いシャツや古着を、自分なりにおしゃれに着こなしていてね。

 だって自分のまわりを見ると、女の子はびらびらした長いドレスに四角い竹のバスケットを持って、ファンシーな感じ。男の子はヤンキーかヨーロピアン。これは関西だけなのかな。ヤンキーはアイビーの進化形で、ヨーロピアンはバギーパンツを履いて、サディスティック・ミカ・バンドのときの加藤和彦さんを思いきりダサくした感じ。ロンドンでパンク・ムーブメントが起こった頃、関西ではサーファーが流行っていました。髪型はセミロングの段カット、アロハにベルトだけグッチとか。そんなふうだったから、私にはニューヨーク・パンクのファッションが本当に輝かしく見えました。当時の日本のバンドだったらミカ・バンドは洗練されていましたね。ボーカルのミカさんが好きでした。

 私自身は高校生の頃はMILKの服が好きでしたね。高価だったから、バーゲンに朝から並んだりして。あとコム・デ・ギャルソンも好きでした。70年代終わりのギャルソンはフランスの高校生みたいな服装をコンセプトにしていて、チェックの巻きスカートとか水玉のギャザースカートとか一見普通なんだけれど、丈がそれまでのスカートと違っていて、シルエットもおしゃれっぽくて好きでした。

アーント・サリーというパンク・バンドを始めたとき、いま名前があがったバンドを参考にしたのでしょうか?

 影響は受けていると思いますが、なにしろ技術がなかったんですよね。だからとにかく音を出しながら、自分たちが面白いと思えることを、手探りで始めるしかなかった。手探りで失敗しながらつくっていったのが、すごく面白かったですよね。

では当時の自意識としては、パンクをやっているということではなかった?

 そうですね。自分たちはパンク・バンドだとは思っていませんでした。ただ世界で同時に起こっていることがあって、私たちはその一員だという意識はありました。

 だけど、日本でそれがイギリスみたいにムーブメントになるかと考えると、そうはならないだろうと思っていました。日本では、東京ロッカーズの人たちがシーンをつくろうとしていたんですけど、それには世代差を感じていましたし、やっぱり関わる人も演奏できる場所も圧倒的に少なかった。セックス・ピストルズが「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を出したら世界中に広まりますよね。日本でそういうことをやっても、おそらく日本の小さなところにしか届かない。雑誌や場所がいくつかあって、そこでパンクだと言ってみても、実際は小さなところで同好の士を集めているだけなんじゃないかって考えていました。今みたいにインターネットがあるわけじゃないし、海外の情報が簡単に入ってくるわけでもないですしね。

そういった国内特有の条件を考えたときに、自分の表現や、つくったものを発表するにあたって、変えていったことはありますか?

 私は自分個人をどんどん小さくしていきました。良くも悪くも、自分の趣味性から離れないでおこうと考えましたね。自分の好き嫌い、自分の好きな質感、自分で描けることを大きく広げないでおこうと思いました。いまも私がやっていることはとても小さなことだし、大きくできないと思っています。

アーント・サリー解散後、ソロとなり、1980年にパス・レコードから坂本龍一プロデュース作「終曲/フィナーレ」を発表する。続いて1981年には、『Phew』を、ケルンのコニー・プランクスタジオで制作します。なにか意思があって海外へ向かったのでしょうか?

 すべて事故のように起こった話ばかりで、自分から海外に出ていったということは全然ありません。「終曲/うらはら」を出したパス・レコードの後藤美孝さんが、仕事でロンドン滞在中に休暇でコニー・スタジオに遊びに行ったんです。そこにホルガー・シューカイがいて、私のシングル「終曲/うらはら」を持っていたそうなんです。それで、とんとん拍子にレコーディングの話が決まった。それまで冗談みたいに「私もコニーズ・スタジオでできたらいいな」と言ってたことはありましたけどね。自分の好きなレコードは、コニーズ・スタジオで録音されたものが多かったので。
 コニーズ・スタジオはもともと馬小屋だった所で手作りのスタジオだったんですけど、1992年にレコーディングで再び訪れたときはドアが立派になって、フロアが綺麗になっていました。1981年にコニーズ・スタジオで録音している最中に、前の年に録音されたウルトラヴォックスのヴィエナが大ヒットしました。何か時代の勢いのようなものを感じました。他にもジャンナ・ナニーニとか、幾つかのミリオンセラーがコニーズ・スタジオから生まれました。

 パンク、ニュー・ウェイヴ世代がどんどんメジャーになっていくなかで、私はいつもそういう流れと関係なくいましたね。時代の勢いと一緒になって浮かれることはできなかった。私がやっていることはわかりにくいものだったし、人に伝えようという努力もしなかった。

 時代の流れには乗れませんでしたが、私にとって、コニーズ・スタジオは特別な場所でした。コニー・プランクとパートナーのクリスタを通して知り合った人たちは、今でも親しい友人です。

『Phew』はヒットして、まるで逆輸入のように国内で評判になる。当時の日本はバブル景気で、文化面でも金回りがよかった。Phewさんにもいわゆるメジャーなオファーがあったのではないかと思うのですが。

 出ていけなかったですね。大きなメディアに登場するようなチャンスがあっても、私にはできなかったです。女優やモデルになりたいと思っていたならオファーを受けたでしょうけど、私はマスというものと自分との接点をどうしても見つけることができなかった。わからないまま大きなところに飛び込んでも潰れるだけですし。別にかっこつけてるわけじゃなくてね。芸能の世界で長期間にわたって自分の能力を発揮できる人はとてもタフで自分をどう見せるかどう見せたいかを深く考えています。私にはその強さはないし、そういったタイプの人間でもありません。

 唯一、自分のできることのなかで、人が聞いてストレートに楽しんでもらえるんじゃないかなと思ったのが、「パンク」だったんです。だから1999年にMOSTを始めました。

当時のPhewという音楽家をふりかえって、パブリック・イメージとセルフ・イメージに齟齬がありましたか? それとも一致していましたか。

 すごく違和感がありました。私は他人の視線でより大きくなれるタイプではなかったので。

 70年代終わりのパンクの時代、ニューヨークだとトーキングヘッズのティナやシャーツ、ロンドンだとレインコーツやスリッツみたいなそれまでとは違うタイプ女の子がどんどん出てきました。パンク以前は、女性のバンドは少なかったし、あってもランナウェイズみたいにセクシャルな格好をしているか、キワモノ的な扱いをされていた気がします。ランナウェイズはパンクバンドとして日本で紹介され、人気が出てました。私はすごく嫌でしたね。パンク以降、男性につくられた性的な存在としての女性じゃなくて、ただ女の子であるという人たちが音楽を始め、その姿が見えるようになった。それはとても嬉しかったです。

 でも、日本はまだ違っていました。アーント・サリーをやっていた頃、私はよく男の子と間違われていたんですけど、レズのバンドじゃないかってよく言われました。別にそんなことはどっちでもいいんですけど、そういうことを言うのはおかしいんじゃないかと思いました。男性ばかりのバンドだとゲイのバンドじゃないかなんて言われないでしょう。同世代でパンクバンドをやってる人でも平気でそんなことを言っていましたから。

 当時、私は音楽で評価されたことがなかったです。そのことに対してはすごく怒りをおぼえたし、怒りをあらわせば、怖い女だ、エキセントリックな女だ、の一言で片付けられてしまいました。男は女にやさしく馬鹿であってほしいのだなと思いましたね。いちばん反発をおぼえたのは、少女という言葉で語られたことです。期待されているイメージはわかりましたけど、すごく嫌でしたね。まだ下手くそだとか音痴だとか言われた方がマシでした。

その怒りは解消されていきましたか? また日本で、女性が性別に縛られることなく評価されるように変わってきたと思いますか?

 とても早い時期に自分を理解してもらえるよう努力することを諦めてしまいました。アーント・サリーや初期のソロの頃の体験は大きいです。ただ、その分より内省的になれたので音楽をつくる上では、良かった面もあります。

 早くに諦めてしまったので、状況がどう変わったかはよくわからないです。ただね、ガングロ(※)が出てきたときは嬉しかったですね。パンクだと思いました。私は若かったらヤマンバの仲間に入っていたと思います。誰のためのファッションでもなくて、彼女たち自身があのメイクを楽しんでいますよね。

※ガングロ:1990年代前半から2000年頃にかけて、若い女性のあいだで流行したファッション・スタイル。濃い褐色の肌に、極度に脱色した髪、つけまつげやアイライナーで目の輪郭を大きくし、目のまわりや鼻筋、唇を白く塗るメイクが特徴。

Phewさんの表現にはずっと声に重心があります。2013年から電子楽器をもちいていますが、それまで楽器をやったことはないですか?

 ギターとベースを弾いたことはあるんですけど、思った音を出せるようにはなりませんでした。でも、最近、録音しているときに時々、ベースを使っています。弾くというより音を鳴らしているだけですけど。

電子楽器はずっと欲しいと思っていましたが若い頃は高価で手が出ませんでした。買い始めたのは東日本大震災の後です。震災で円高になって、買うのは今しかないと思って、eBayをチェックしてました。

 耳に親しんでいたRhythm Masterというアナログのリズムボックスを始めて買いました。最初は機材を並べるだけで楽しかったです。外に出るとひどい世の中だと思うことばかりでしたけど、家でひとりでいる分には楽しかったですね。いまでもそう。

震災後は人の声が大きくなりました。社会的、政治的な発言が行き交い、デマや流言が飛び交ったりするなか、どこに耳を傾けるべきか難しい時期でもありました。先ほどおっしゃっていた「自分を小さくしていく」にもつながりますが、自分の小さな地点、自分が大切にしている小さな音だけが聞こえるスペースを守ろうとしたのではないか。そこで手が伸びたのが、パンクバンドでもなく、2010年に発表された『ファイヴ・フィンガー・ディスカウント(万引き)』のように人々と記憶を分かち合える過去の楽曲のカヴァー集でなく、電子楽器だったのではないかと。

 それもひとつはありますね。ただ世の中で起こっていることは考えていかないといけないことだし、そこから自分を分離することはできない。でも、そこに出ていくためには、自分のセンター的な場所が必要です。

 震災後、何度も金曜日の国会前(※)に行きました。一人一人が声を上げることは大切だと思いますが、強い声の方に倒れていかないようにひとりで立っていられる状況をつくらないといけないと私は考えました。それは私にとっては、音楽をつくることだったんです。震災や原発事故がなければ、こんなことは考えもしなかったと思います。

 まず、どうやったらひとりで「バンド」ができるかと考えました。それで最初にリズムボックスを買いました。

※金曜日の国会前:2012年から毎週金曜日に首相官邸前・国会議事堂前でおこなわれた、脱原発をもとめる大規模な抗議行動のこと。

その時期を経て、つくる音楽の考え方も変わりましたか?

 ますます個人的に、自分の好きなものに固執するようになりました。それまでは動員のことを考えたり、人に受け入れられるよう多少の工夫をしていましたけど。いまは、ただただ好きなことをやりたいようにやっています。ただし、世に出せるクオリティに達しているかどうかは、慎重に考えます。最低限のクオリティというものはありますから。

2012年に小林エリカさんとのProject UNDARKで『Radium Girls 2011』を発表しました。1910年代から20年代にアメリカの時計工場で働いていた被爆した女性たちをモチーフにした作品です。ディーター・メビウスさんによる電子音楽のトラックに、Phewさんは歌とも語りともいえる声を乗せています。テクノロジーと史実というモチーフに、電子的な音響と声によって未来的な広がりをあたえる発想が、のちの『ニューワールド』(’15)につながっていると思うのですが、いかがでしょうか?

 当時、小林エリカさんが放射能について調べていて、ラジウムガールズのことは小林さんから聞いて初めて知りました。聞いたその日に、これを題材にしてアルバムを作ろうと思いました。原発事故後の不安な日々を過ごすなかで、あの惨事を対象化する必要があったからです。アメリカで、しかも1920年代という大昔に起こった出来事だから放射能とか核の歴史を相対化できたということはありますけど。

 『Radium Girls 2011』をリリースできたから、次のステップにいけたとは思います。

近年のPhewさんの歌詞は、Phewという人の詩情から離れて、遠くの相手と交信する言葉を編み出そうとしているようです。それがPhewさんのあらたな詩になっているとも思うのですが、歌詞の書き方について、かなり意識的に変えたのではありませんか?

 それはすごくありますね。以前はこういうことを伝えたいというものが多少はあったんですけど、状況が変わりましたね。平たくいうと、昔は「私を見て」ということが言えたけれど、いまは通用しないということです。大抵の人はいま ネットで膨大な情報にふれていますよね。私自身も情報に疲れています。そのなかで「私はこう思う」と言っても、余程のことがない限り、聞いてもらえないと思うんです。小さい個人的なところに立ちながら、どういう言葉なら歌に乗せて聞いてくれた人に分け入っていけるのか。すごく考えます。

『ニューワールド』の前後に、4枚のCDR作品をライブ会場などで販売されてきました。楽曲として定着された『ニューワールド』とくらべると、CDR作品はよりライブに近いダイナミズムが残されていると感じます。アルバム、CDR、ライブ、どのような違いを設けていますか?

 違いは電子楽器の特性によるところが大きいです。電子音はコントロールが難しくて、アルバムの楽曲を録音した通りに演奏したくてもできないんです。また、アルバムの楽曲は編集やミックスに拠る部分も大きいので、生演奏では再現できません。再現するにはカラオケでボーカルだけ生という形になってしまう。でも私は、それはやりたくないんです。だからライブは即興演奏的なものが比重をしめるセットになってしまいます。まずどの機材を使うかから考えて、そして客層や持ち時間などにも合わせて、セットを組み立てていきます。

 ライブはその場の時間をつくって消えていくものですけど、アルバムは残るものですからクオリティを考えます。アルバムは実験映画みたいに、こんなふうに始まってこんなふうに終わるという、ぼんやりしたイメージの流れがまずあります。そのイメージのもとで音を出しながら、曲をつくっていきます。曲はばらばらにできあがってくるんですけど、ミックスした後にそれを最初に思い描いた順番に並べてみて、あれこれ試行錯誤します。CDRは、次のアルバムのためのスケッチみたいなものです。

スケッチというのはなるほどです。サウンドスケープのなかに言葉が浮遊して、鳴っている音と声がかけひきしています。

 音とのかけひきは、これまでバンドをやってボーカルだけに専念してきた頃との、大きな違いです。これまでずっと真ん中に声がありましたから。

 電子機器のみを演奏している時でも声を出さずに歌っています。私は根っからシンガーだと思います。自分の身体が機材に移っていく感じが面白いし、そこにいちばんこだわってやっています。体力は衰えてるけど気持ちは20代、いまは楽しくてしょうがないです。でも楽しいだけの時期を過ぎると、テクニカルなことを覚えていかないと思うように演奏できないだろうなって感じています。

いま、どんなものを制作されていますか?

  今、自分の声だけを使ってアルバムをつくっています。もうほとんど録音は終わっていて、夏が終わるまでには完成する予定です。どういった形でリリースできるかは、わかりませんが、自分にとって、とても大切な作品になると思います。

 あとは、去年の12月からザ・レインコーツのアナ(・ダ・シルヴァ)と音をやりとりしていて、すごく刺激になっています。2010年にザ・レインコーツが来日したとき、私は向島ゆり子さんとサポート・アクトをやって、そこでアナと初めて会いました。その時は、挨拶をした程度だったのですが、その後、アナのソロアルバム『>span class="s2">』を聴いて、その中の「Disco Ball」という曲の歌詞に感銘を受けました。それで自分がCDRをつくったときに、アナにぜひ聴いてもらいたいと思って送ったんです。そうしたら、去年の秋にロンドンでライブをやったとき、見に来てくれたんです。そのあと、何か一緒にやりませんかという連絡がアナから来て、音源を交換するようになりました。いま8曲くらいできていて、アルバムにまとめられるといいなと思っています。

最後に、このインタビュ―は香水にちなんだ企画だったのですが、Phewさんはどんな香りが好きですか?

 ムヒ(※)が好きです。薬みたいな刺激的な香りで、目が覚める感じが気に入っています。

※ムヒ:かゆみ止めの軟膏。昭和初期に爆発的に大ヒットして以来、虫さされ薬として日本で広く親しまれてきた。

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