小説家を構成する感覚の記憶と言葉。村田沙耶香の小説作法

2003年のデビュー作「授乳」から、2016年の芥川賞受賞作『コンビニ人間』にいたるまで、視覚、触覚、聴覚など人間の五感を丹念に書き続けている村田沙耶香。その創作の源にある「記憶」と、作品世界を生み出す「言葉」について、小説家が語る。

「感覚を描くことは常に意識しています。小説の中の人物を書くときには、性格的な要素を連ねるだけではなくて、例えば仕草や声のトーン、笑い方、話すときによだれが飛び散る感じなど、生理的な部分で好き嫌いを感じるものを細かく描写して、書き込んでいくのが好きです」

 例えば、短編小説「授乳」はこんな風に始まる。《その日の先生の青白い裸足を、私は奇妙によく覚えている。先生は母の出したスリッパの間をすりぬけて、素足のまま廊下へ足を伸ばした。表面が乾き切り、血管のすけた不健康な裸足に、ゆっくりと先生の体重がのしかかっていく》。104文字からなる3つの文が、村田沙耶香の作品世界の扉を内側から開け放つ。歩くときも物を咀嚼するときも音を立てない先生。工作のようにおにぎりを作る母。ノートの上で白い光を反射する黒い文字。物語を先へ進める緻密な描写は、一体どこから生まれるのだろうか? 

「作品と人物によりますが、例えば『授乳』の先生の描写は、自分の身体を観察したり、母親の場面では実際におにぎりを作ってみながら言葉を探しました。書いているうちに冷凍保存されている記憶が解凍されて、創作した情景と細部の描写が繋がることもあります。自分の中に浮かぶ登場人物の姿から、まずは似顔絵を描き、住んでいる場所や部屋の間取り、着ている服や好きなブランド、使っている化粧水など思いついた設定を羅列していきます。作業をしているうち、なんとなく記憶に引っかかっていた服のボタンの感じや、その人がどんな文字を書くか、どんな筆箱を使っているかなどのディテールが出てくる。場所を書くときは取材をし、記憶も利用します。ニュータウンを舞台にした『しろいろの街の、その骨の体温の』ならば、現地に何度も足を運ぶうち、新しい街や道路の形、学校の教室はこうなっていて、時計がここにかかっていたな、など、連鎖反応のように記憶が解凍されて出てきました」

感覚にまつわる一番古い記憶は、3歳くらい頃のもの。「あれは引っ越しの日の記憶だと思います。古い家から引っ越していく車の後ろから、いつも一緒に遊んでいた女の子たちが手を振っていて、真っ白な社宅から車で遠ざかっていく。その視覚的イメージが鮮明に残っています。幼い頃の記憶が鮮やかな一方、私は人の顔を覚えるのが本当に苦手で……以前、『増えるクラスメイト』というエッセイにも書きましたが、高校時代にクラスメイト2人と、とある先生の顔の区別がつかなかったことがありました。大学生になっても、同じ授業をとっている人の顔と名前が一致せず困ってしまって、名簿を持ち歩いて盗み見たりしていました。一方で、その人と交わした会話や小さなできごとはよく覚えているのですが……あまり固有名詞に興味がないのかもしれません」

観察と記憶。感情は、分解すると情報に変わっていく

 冷凍した記憶を小説に使う村田沙耶香にとっては、自分自身もまた観察の対象だ。「小さい頃は、内気な女の子としての自分と他者の間に境界線がありました。でもいつの間にか自分も観察対象の一人であるという感覚を持って、冷静に見るようになっていた。自分の身体は内側から観察できる唯一の肉体なので、作家にとっては大切なものです。精神も観察します。観察というより分析なのかな。物事をとことん考えるのが好きです。例えば友達と喧嘩をしたとき、悲しいという自分の気持ちに寄っていくより、自分はどうして悲しかったんだろう? 例えば過去におきた別の友達との出来事で受けた傷が反応して、実際に言われたこと以上のショックを受けたのだろうか? と考えに考える。分解する。分析して解明していくと、悲しい出来事がただの情報になって、悲しみや嫌だという感覚がなくなっていくんです。ネガティブなことだけではなくポジティブなことも分析していると思うんですが、分析した結果、なるほど! と納得するのは、ネガティブなことのほうが多い気がしています」。その分析は、書くための作業なのだろうか? 小説のために、日常に目を凝らしているのか? と問えば、「生活の中で、これを小説に書こうと思って見ることはほとんどありません」と断言する。「小説は、書き始めてみないと何を書くか分からない。物語が動き出してみないと、どういうシーンが必要かわからない。クセのように分析して、忘れていたと思った記憶が保存されて、書いているうちにだんだんと蘇ってくるんだと思います」

 似顔絵、間取りなどの視覚情報をノートに描きつけることに始まり、村田沙耶香の小説作法はどこまでもオリジナルだ。「小説を書き始めるときはノートを新しくおろします。短編なら薄いノート、長編なら100枚綴り。表紙に『文學界』『早稲田文学』などの掲載誌のタイトルを書いたら、思いついた設定をバーっと書き出し、浮かんでくるシーンを書いていく。ある程度仕上がってきたらパソコンで打つ、その時にまた描写が膨らんでいく。そこからは、打って、印刷して、読み返してはシーンを加え、ノートも一緒に使いながら、途中途中に白い紙も挟んでどんどん書き加えて、また打ち出して、の繰り返し。同じシーンを何度も何度も、書いて打って読んで作っていきます。全部手書きで書いている方とも、全部パソコンで書いている方とも違うやり方ですね。私の場合は、デビューの時からずっとこのやり方で書いています。設定やアイディアの段階では人に見せることはありません。例えば『殺人出産』で作った、10人赤ちゃんを産んだら1人を殺せるという設定。これも、シーンがあって初めて説得力を持つものなので、文字に書いて、文章にしてから編集さんに見せます。私が書いているのはアイディア小説ではなくて、小説の中に設定があるだけなので、文章で読んでもらわないと伝わらないと思うんです」

自分の中にあるものを一番正確に記録できるのは文字。だから小説を書く

 実写映像に近い形で思い浮かんだものを絵に描き移すところから設定を固めていく。では、作家の中にある世界は、文字ではなく、絵や映像で表現される可能性もあったのだろうか?

「実は、小学生の頃は漫画家か小説家になりたかったんです。友達と漫画を描いて見せ合ったりもしていたんですが、私はあまりにも画力がなくて……左向きの顔しか描けないし体もうまく描けなくて、ずっと左向きの顔に寄ったコマばかりを描くしかなくて、ある時、私には無理だと悟って漫画を描くのはやめました。それからは小説だけを書いています。誰もが気軽に写真を撮れるスマホ時代にあっても、写真も苦手だしセンスもない。でも、『MILK』の服を着た美少女の絵は描けなくても、文章でなら描写をすることで近づける。自分が食べた料理の写真がまずそうになってしまっても、文字でなら表現できる。私にとっては、自分の中にあるものや見たものを、そして物語の中に発生した風景を、一番正確に記録できるのが文字なんだと思います」

村田沙耶香/1979年生まれの小説家。2003年、「授乳」で群像新人文学賞優秀賞を受賞してデビュー。2009年には『ギンイロノウタ』で野間文芸新人賞、2013年『しろいろの街の、その骨の体温の』で三島由紀夫賞を受賞。2016年に芥川賞を受賞した『コンビニ人間』は、50万部を超えるベストセラーになった。出産や家族を描いた『殺人出産』や『消滅世界』など、これまで10冊の小説を上梓。エッセイ集『きれいなシワの作り方〜淑女の思春期病』も好評。現在は新作小説を執筆中。

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