ロンドン南東部に位置するブロックリーに育ったケイト・テンペスト(Kate Tempest)は、幼少の頃すでに物語を言葉で綴りはじめ、ティーンに差し掛かる頃には音楽を書いたり、ラップの歌詞を書いたりしていた。現在31歳のケイトだが、現在にいたるまでに作り上げてきた作品を見れば、その想像力の奥行きと幅を垣間見ることができる。マーキュリー賞ノミネートの経験を持つミュージシャン、スポークン・ワードのパフォーマー、2冊の詩集と一冊の小説を発表している詩人・小説家、定評ある戯曲家など、言葉に関わる様々な領域で才能を開花させてきたケイトは、詩集『Brand New Ancient』で、優れた詩人に贈られるテッド・ヒューズ賞(Ted Hughes Award)を受賞するまでに至っている。
彼女の最新レコード『Let Them Eat Chaos』は、ケイトが7人のキャラクターの人生をラップで綴る、群像劇形式のアルバム。ロンドンのひとつのストリートで、明け方の4時18分に目をさますキャラクターたち——同じ道で同時に目覚める、ユニークなキャラクターたちの生を描いている。ヒップホップのサウンドと、48分間にわたり聴く者を魅了する詩の世界が印象的なこのレコードだが、そこには、彼女が敬愛するWu Tang Clanと、ロンドンの先輩であるウィリアム・ブレイク(William Blake)の影響が色濃く見て取れる。ケイトは、画家がポートレートを描くように、言葉でキャラクターたちを描写していく。常に変化しながらも、政治的には古い体制を変えられないロンドンという街と、そこに生きるひとびと——『Pictures on a Screen』でブラッドリーは「まるでガラス越しに世界を見ているようだ」と呟き、ゾーイは『Perfect Coffee』で中産階級向け地域開発の波に押されて引っ越しを余儀なくされ、荷物をまとめる——ケイトの作家としての表現手段は、彼女が焦点を当てる人間性と同様、とてもオープンだ。この「人間の魂」こそは、ケイトが歌であろうと詩であろうと、戯曲であろうと小説であろうと、いかなる表現形式においても、一貫してテーマとして掲げてきたものだ。ケイト・テンペストに、限界の文字はない。
あなたはミュージシャンであり詩人であり、また作家でもあり戯曲家でもあります。それらすべての領域での表現を試してきたのは、自然な流れからのことだったのでしょうか?
「書く」という衝動と情熱は自然なものでしたね。ほかはすべて意識的な行為です。アイデアを可能な限り良い状態へと具現化していく上で、自分にとってそれほど自然ではない領域へと自分を押し込むことはとても重要なことだと思っています。私にとって、戯曲を書くことや小説という形式で物語を織り成すことは自然なことではありません。しかし、そういった「完全にしっくりくるわけではない」というような領域へと自分をプッシュすることで、私は自分の声ともいうべきものを見つけることができました。試行錯誤と苦難の連続の中で、新たな道を見出すことができたり、新たな空間だからこそ自分の輪郭をはっきりと見ることができるようになったのです。それこそが、クリエイティブ世界における自分の声と強さを見つける工程なのだと思います。そうやって進化していくということが大切なのだと、そこで気づきました。
感じたことや考えを文字にしてみたいと最初に感じたときのことを覚えていますか?
物心ついたときから、「書く」という行為は私の生活の一部でした。「これだ!」という瞬間があったわけではありませんでしたね。子どもの頃から物語なんかを書いたりはしていましたが、ティーンのときにラップの歌詞を書き始めた頃から、「書く」ということに対して腰を据えたような気がします。
五感のうちで嗅覚はもっとも記憶に密接な関係にあるといいますが、あなたには、「この香りを嗅ぐとあの時と場所に瞬時で戻ってしまう」というような香りと思い出はありますか?
家の隣にジャマイカ移民が住んでいたり、ストリートには西インド出身のひとびとがたくさんいました。子供の時分、友達とよく近所の家の庭で遊んでいたんですが、そこで嗅いだ料理の香りを鮮明に覚えています。6歳だか7歳のとき、初めてそのおうちにお呼ばれして、ご飯を食べさせてもらいました。庭には木が一本あって、その向こうから家の裏まで細い路地がありました。路地は、裏手の公園まで続いていたと思います。そこを通ると、両脇に立つ木が濃い夏の香りを放っていて、暑くて、すべてが緑で——その光景を思い出すと、新しくなにかが始まるようなワクワクした気持ちに心躍ります。
"どんなキャラクターも、実際に私が経験した真実の瞬間から生まれます"
限られた数の言葉でとても鮮やかにキャラクターを描写しますね。キャラクターはどのようにして思い浮かぶのでしょうか?
実際に自分が生きてきた体験と、私自身が感じた内的体験、そしてひとびとの人生を見て想像力が働いた結果の感情移入の経験、それらすべてが混ぜ合わさってできあがるものだと思います。どんなキャラクターも、実際に私が経験した真実の瞬間から生まれ、書くプロセスの中で自ずと生きた魂を持ち始めます。「書く」ということで、この世界の現実や、私自身が心の奥底で本当に感じていることを深く理解できたりします。自分ではない誰か——自分とはまったく違う人生を、自分とはまったく違う場所でまったく違う人間として生きるキャラクターを通して、自分の感情というものを客観的に見つめることができるからでしょうか。私が書くキャラクターに自伝的要素はありませんが、それでも私のキャラクターたちは真実から生まれているんです。作品を通してそれを感じてもらえたら嬉しいですね。
あなたはこれまでずっと他者に向けるその共感的な想像力を持ち続けてきたのでしょうか?
そうですね。そういう想像力というのは幼少の頃に芽生えるもので、私たちが生き、また人生を生き抜くうえでとても重要な役割を担っているものだと思います。しかしそれは意識的な行為でもあって——少なくとも私にとっては、そういった想像力を働かせてひとを理解して生きるということ、常に他者に対して共感できる心を持ち続けること、ひとに対してネガティブに決めつけてかかったり見知らぬひとびとへの接し方において人間性を忘れたりしてしまっているときに、立ち返ってそのような想像力を働かせるというのは、意識的な行為でもあります。ロンドンのような大都市に生きていると、そういった想像力は簡単に忘れてしまいがちです。他者に向ける想像力が自分の中に眠っていることを思い出し、それを呼び覚ますかどうかは、人間ひとりひとりにかかっているのです。
アルバムに収められた曲すべての設定で、時間を明け方の4時18分としていますね。
はい。キャラクター設定を考えるとき、時間というのはとても重要な要素なのです。4時18分という時間が面白いと思ったのは、まず「そんな時間に彼らがなぜ起きているのか」という疑問が芽生えるからです。作家として、まずそこが何かしらの起点になります。例えば「昼」という時間に物語を設定するのとは明らかに違う脳の働きが生まれます。そして、私自身がその明け方という時間に、個人的に感じるものがあるのです。夜の闇の中、自分だけが起きているという感覚は、誰にでも覚えがあるものではないでしょうか? 真夜中にしか生まれ得ない思考や、あの独特な孤独感は、私たちがどれだけ自分自身や親密な関係にあるひとびととの間に無意識の隔たりを感じているかのメタファーだとも思います。
"フィクションはドキュメンタリーとは違います。架空の物語というのは、現実の人生に対し想像の中で反応するという行為なのです"
小説を書くプロセスはどのように始まるのでしょうか?
架空の物語というのは、すべてが作家の実体験、もしくは大体の実体験から始まりますが、それは現実にあった状況でなくても良いのです。たとえば、「過去に実際に感じたもの」であっても良いわけです。そんな「感じたこと」からすべてが始まることもあります。不当な扱いを受ければ、そこに想像力が働きますよね。自分ではない誰かが、そこであなた自身が感じた真実の感情を極端な形で表現したりする——誰にでも覚えのある想像だと思います。フィクションはドキュメンタリーとは違います。架空の物語というのは、現実の人生に対し想像の中で反応するという行為なのです。
人生の様々な段階で何度も読み返してきた小説や作家は?
ウィリアム・ブレイク(William Blake)、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)、そしてカーステン・マッカロック(Carsten McCulloch)ですね。ブレイクは、あの厳格なところに惹かれます。ブレイクのライティングは彼の道徳観をベースに構築されていて、それは読めば読むほど見えてくるもの——だから何度も読んでいます。ジョイスは、複雑な作品をシンプルで短いセンテンスやフレーズで書いている点に強く惹かれます。「若いときには理解できなかったことが、大人になって読んだら深く理解できた」ということが多々あるのもジョイス作品の特徴ですね。カーステンは、ひとについて書くのが上手。また、最初のページから一気に読ませることができるライティングで、「また読みたい」と思わせる力があるし、読むたびに新しい発見があります。
世界があなたの感覚にどのような影響を与えているか——あなたはそれをどのようにして感じ取りますか?
詩人や作家やミュージシャンは、世界が自分の感覚に影響を与えると、それを理解するために「書く」という行為を用います。「なぜこれほどまでに自分の感覚に訴えるのか」とそれを理解するために、書かずにいられないのです。その影響は振動のようなもので、今の私はその力強い振動をもれなく感じることができる状態にあると感じています。感じるから、何かを作らずにいられなくなります。ステージに立つ女性にとって、パフォーマンスとは繊細さであり、感じること——感じているときにこそ、自分自身でも知り得なかった力をステージで放つことができるのです。力というより、存在感ですね。作家や詩人にとって、強さと繊細さは同一のものです。繊細さを持ち合わせてしまっているから書くわけで、繊細さこそが言葉を扱う人間の強みであり、力ですからね。音楽と話し言葉は私の世界において大きな一部ですが、私は、「詩がひとに届き、心を震わせるには、音にして詠われなければならない」と考えています。そういった意味で、「目は見過ごしてしまうものを、耳は感じ取ることができる」という真実が、私の詩の世界では重要な要素となっているんだと思うのです。目では、言葉が持つ形やサウンドを把握することはできないのです。詩は、たしかに紙に書かれた言葉の羅列として読むこともできる——でも、それを実際に口に出して音で詠まないかぎり、そこにある大きな詩の世界は半分も理解できません。私にとって「感覚」とは、自らの意思で働かせるもの。クリエイティビティは、スイッチをオンにしないと稼働しないもので、そこには感覚の働きが不可欠です。クリエイティビティと想像力を真に機能させるには、それがきちんとチューニングされていなければならないのです。