歴史的に、嗅覚は最も下層の感覚として扱われてきた。それゆえ嗅覚に関する科学的な研究は、他の感覚についてのものより遅れているのが常だ。おもしろいことに、文系の学問についてもこの傾向が見てとれる。詩歌、小説、そして哲学においてさえも、私たちの暮らしに充満しているはずの香りについてほとんど、もしくはまったく触れてこなかったのだ。もちろん、人の嗅覚が動物のそれと比べてかなり劣っていることは誰もが“知って”いる。しかし幼年期から培われてきたこの誤解こそが、私たちの意識を嗅覚からそらせているのだ。そして私たちは、意識が向かないようなことに呼び名をつけることはない。
香りに関する言葉が少ないことが、それほど問題なのかと思う向きもあるだろう。本当に香りは香りでしかない? こと感覚に関しては、私たちがそれをどう表現するかで考え方も変わるのだ。ダークブルーのカードとライトブルーのカードを掲げて、英語を話す人にこれは何色かと聞いたら、ほとんどの答えは“ブルー”になるだろう。しかし、これがロシア語を話す人であった場合、その2色は明確に区別される。というのも、ロシア語ではライトブルー(Goluboy)とダークブルー(Siniy)がまったく違う呼び方をされているからだ。思考にぴったり合致する言葉がない場合、私たちはこうした小さな違いを見落としてしまうのである。
本当に香りは香りでしかない?
嗅覚以外の感覚について、私たちはその感じ方に呼び名をつけることが多い。そうすることで、より明確にそれを思い描くことができるからだ。音は、周波数や音程、強さなどで区分けされているので、それを頼りに頭の中で音を再現することが可能となる。色も光の波長で科学的に表現されたり、それぞれの言語で名前がつけられていたりする。しかし香りは、その違いを区別する指標があいまいなままだ。「この香りは○○に似ている……」と言うのが関の山である。繊細な百合の花は「雲のようなかたち」とその姿を表現でき、皮膚に感じる日差しの暖かさは「オーヴンの近くに立っているみたい」と言い表すことができるのに。嗅覚は、感覚の中で唯一、言語的に軽んじられているのだ。その感じ方を表現するのをほかの感覚に頼るなど、嗅覚の沽券にかかわるではないか。
コミュニケーションをとったり例示したりするために存在する言葉は、感じ方を伝えるという意味ではあまり役に立たない。香りを伝えようと思っている人が、こちらが出す例えを何一つ感じたことがないとしたら、何を言っているかさっぱりわからないからだ。ナツメグを知らない人に、ナツメグに似た香りを表現するには一体どうしたらいいというのだろうか。このように英語には香りを表現する言葉があまりないため、ワインの香りを言い表すときに“角がある”とか“洗練された”とか“金属のような”などといった商業的な用語が使われることが多いのだ。
香りを表現する言葉の欠如は、香りを伝えることだけでなく、香りに対する理解や認識にも影響している。マレーシアの一部で話されているジャハイ語を使う人たちは、欧米言語を話す人たちよりずっと巧みに香りを区分することができるという。ジャハイ語には、例示することなく香りを表現する抽象的な言葉が一定数あるからだ。例えば「crŋir」という言葉は、ローストしたものに対して使われる。「pʔih」は生や血の香りがするものを指すが、虎が好む新鮮な香りを表現する「plʔeŋ」とはまったく異なるのだ。それらの言葉はすべてただ1つの香りを表現するために使われ、複数の香りを示すことはない。
ジャハイ語はどのように香りに関する語彙を増やしていったのだろうか。湿度が高く、香りに満ちたジャングルの中での暮らす人々には、鼻から得る情報をより細かく理解する必要性があったのだと考えられている。タイの香り高きジャングルに暮らすマニク語族は、ジャハイ語族の人たちと同じくらい香りの理解に長けていて、香りに関する豊かな語彙を持っている。香りに囲まれた世界に住んでいると、その香りを具体化するために語彙を増やす必要が出てくるのだ。
ジャハイ語族とマニク語族の研究者の1人であるアシファ・マジドは、この部族の文化における香りの重要性が、その能力を研ぎ澄ましたのだと示唆している。子供たちはごく早い段階で香りに関する幅広い語彙を培っており、それが脳の発達にも寄与しているのだと考えられる。彼女のこうした研究は、脳内での香りの識別に関する科学的な認識に変化をもたらした。顔rは言葉での表現を超えたものだと考える人も多いが、マジドはこう言っている。「それに向いている言葉を選べば、香りは言語的に表現することが可能です」
香りを表現する言葉の欠如は、香りを伝えることだけでなく、香りに対する理解や認識にも影響している。
香りを表現するのに向いた言語は話さないが、例えば調香師やワインテイスターのように、香りに関する仕事をしている人たちもいる。彼らはジャハイ語族やマニク語族のように言語的に恵まれてはいないものの、同じように香りを識別することが可能だ。しかし、そのほかの一般的な人が暮らすこの平均的な世界は、がっかり以外のなにものでもない。欧米社会は香水やデオドラントであふれ、不快な、しかし感覚に強く訴えかける香りを生活から消し去ってきたからだ。筋肉と同じように、鼻も使わなければ衰えていくのである。
だが、嗅覚を鍛え直し、改善することは可能だ。鍛え上げた筋肉とは違い、鼻自体の能力を高めることはできない。嗅覚を鍛えるということは、すなわち脳の回路を再びつないでいくということなのだ。何度も嗅いだことのある香りは、回を重ねるごとに素早く認識されるようになる。鼻に入った香り分子が脳の神経細胞を刺激し、記憶と結びつくからだ。そのため、再びその香りを感知したとき、脳はより迅速にそれを認識できるのである。香りをより敏感に嗅ぎとるためには、練習と気づきこそが重要なのだ。
嗅覚を研ぎ澄ますには、独自の言語をつくらなければならない。香水は、それをつける人によって何千ものユニークな香りに変化する。その感じ方は、巷で広く使われている“花のような”とか“スパイシーな”とかいったぼんやりした言葉で表現しきれるものではない。それぞれが独特の香りとして感じられるからだ。それは1人ひとりが自由に言葉のない香りの辞典を編むようなものなのである。
五感を磨くことでこの世界をより深く理解するというのは、一握りの人しか到達できない技能のように聞こえるかもしれない。だが、実は誰にでも可能なことなのだ。絵を描くときにも、言語表現の限界を感じることがある。人間の皮膚の色は白や黒などといった単純なものではなく、色合いや色調が混じり合ったものだからだ。画家はその目で見るものを理解する術を身につけてはいるが、それだけで十分だと思っているわけではない。香りにもそれと同じことが言えるのだ。
それゆえ、嗅覚を鍛えようと思っているなら、香りをすぐさま定義づけてはいけない。例えばある香水をほかの何かの“ような”と表現するなど、安易な判断を脳にさせてはならないのだ。その香水には、独自の香りがある。感じ方を表現する自分だけの言葉をつくればつくるほど、周りの世界がより豊かになっていくことだろう。