作家アリエル・レヴィーによる自叙伝『The Rules Do Not Apply』は、喪失感をテーマにした作品だ。息子、配偶者、家を失ったことで、「私が心に描いていた人生の構想」を失った経緯について書かれている。レヴィーは、ジャーナリストとしてこれまで数々の文化人や著名人の真の姿に迫り、その人物評を大手新聞や雑誌に寄せてきた。中でも、彼女が「数奇な人生を送る女性」と呼ぶ人物を書いた記事は、レヴィーの名を一躍有名にした。レヴィーは、『The Rules Do Not Apply』の中で、元妻のアルコール中毒、ジャーナリズムでの試行錯誤、そしてモンゴルのホテルで亡くなった息子など、彼女が半生で経験したさまざまな出来事について、散文形式で書いている。そこでは、彼女自身が「数奇な人生を送る」女性として描かれている。そして、その数奇な人生は、読む者の心を捉えて離さない。
『Female Chauvinist Pigs』は、もはや歴史の記録のようで、読んでいると恐ろしくすらなる。あれから何が変わり、あの時代からはいったい何が生まれたのか? ポップカルチャーにおける現在のフェミニズムについて、どう考えていますか?
オレンジ色の気持ち悪いモンスター大統領が、その良い例でしょう? ビューティ・コンテストが大好きな男——これまで長年、コンテストのバックステージに潜り込んで、コンテスト参加女性たちにちょっかいを出してきたような男——自らの娘すらをも、性的魅力の基準でのみ評価する男が、今やこの国の大統領なのよ。「俺が強引に陰部を触ると、女は誰もそれを喜ぶ」と発言したことに関して問われ、その発言を認めた男よ。女性を、人間としてではなく、まさぐって性欲を満たすための物としてしか考えていない。そして今、なぜだか大統領になってしまったあの男は、女性蔑視と男性至上主義の社会を作り上げる方向に猛進している——でもね、女性の敵というだけでなく、あの男はあらゆる意味で史上最悪のアメリカ大統領への道をひた走ってるのよ。話が脱線したけれど、私が言いたいのは、リアリティ番組や、女性が性的対象として打ち出される文化、実に低レベル化した文化全般、消費文化への執着、ゼロ和ゲーム文化といった、私が『Female Chauvinist Pigs』で“地獄絵図”として書いた近代社会が、ここにきてトランプの大統領就任というエンディングを迎えたんだということ。
あなたが人物評を書いたジル・ソロウェイ(Jill Soloway)、エディス・ウィンザー(Edith Windsor)、キャスター・セメンヤ(Caster Semenya)といった人々から、何を学びましたか?
エディスを例にとりましょうか。エディスは、80代後半という歳でありながら、人生を真に謳歌している。それに強く触発されるし、私も歳をとることが楽しみになるわ。歴史を作っただけでなく、最近になって再婚までして(50代の女性とよ)、旅をし、人生をエネルギッシュに生きている、真に美しい人なの。2年前の夏、マサチューセッツ州のプロヴィンスタウンで、ディナーを一緒に食べた後、彼女を家まで送っていったの。夜も11時を過ぎていて、私は眠くてあくびをしているのに、エディスは「踊りに行きましょうよ!」って言い出したわ。
ということで、エディからは、「枯れることなく歳をとることもできる」ということを学んだわね。
『The Rules Do Not Apply』は、『Female Chauvinist Pigs』に続く作品として多くの読者が想像していなかった内容だと思います。これまで自分以外を書いてきたあなたが、自分自身について書くというのはどんな気持ちだったのでしょう?
実は、『Female Chauvinist Pigs』を書くのは苦痛だったの。書き始めた当初は、論争的な本を書こうなんて思っていなかったし(今後もないと思うわ)、作家として私の本領ではない視点なの。私が書きたいのは、人生のストーリー。だから、今回は前回よりずっと楽しかったし、自分らしい書き物ができたと思う。これまでに学んだスキルやテクニックを使って、過去20年間の半生を書きたいと思ったの。これまで人の人生を語ってきたからこそ、今度は自分の半生を物語として書いてみよう、そろそろ書けると感じたの。自分よりも他人を書く方が簡単なのよ。
書き物はどこで、どんなプロセスで行うのでしょうか?
どこでもするわ。大仰な環境なんていらないの。飛行機の中、ベッドに横たわりながら、猫とソファに座りながら、南アフリカのジョンの家、バス、電車だろうが、どこでも書ける。どこで書いていようと、大切なのはスナック。人参やオレンジさえあれば、どこでも書くわ。こう言うと私がオレンジ色のものばかり食べているみたいに思われるかもしれないけど、そんなことはないのよ。オリーブも私にとって大切な食べ物よ。
結婚、アルコール中毒、そして愛に伴う悲しみと苦しみについて聞かせてください。
悲しい出来事が起こると、人はその悲しみのなかに放り込まれる。それが、じきに、人の心の内に息づくようになる。中毒に関しては、それが人にコントロールできるものではないんだということを学んだわね。どんな中毒であっても、それがどれだけ制御のきかないものかを受け入れるということ。結婚に関しては、自分が結婚というものに意味を見出しているんだということに気づいた。その気づきがあったからこそ、いま再婚をしようとしているの。
最後に、愛について。ロマンチックな愛も、家族的な愛も、それがどれだけ大切なものかを、私たちは誰もがわかっていると思う。私たちの文化では、それが何よりも大切だと教え込まれているしね。でも、本のなかでも触れている私自身の体験を通して、私は、親友たちと築いてきた関係——20年、30年、なかには40年をともに生きてきた親友たちとの愛が、何よりも大切なんだということに気づいた。仲良しの友達との間にある深い愛情は、もっともシンプルで気持ちの良い形の愛なんだと思う。そして、私はほんの短い間ではあったにしろ、母性愛というものも経験した。あれは、忘れようにも忘れることなど決してできない、そして忘れたくなどないもの。きっと、私はあの愛が残したこの胸の疼きを、死ぬまで感じながら生きていくんだと思う。
“子供を産むことができるという恵み”や、“女性にはどんなものでも可能なのだ”という概念など、あなたが美しい言葉の中に書いたフェミニズムの限界について考えると、「女性はこれまで一貫してフェミニズムに騙されてきたのかもしれない」とも思えてくる。あなたは著作を通して、「すべてを手にいれることなどできない」と言っているのでしょうか? 若い女性たちに「目を覚ましなさい」と?
女性にかぎらず、人間は誰しも、望んだすべてを手にいれることなんてできない。それが、大人になるということだと私は痛感している。人生には、どれだけ強く望んでも、結局は手に入れられないものがあるのだということ。なんでも可能なんだと盲信するのは、フェミニストではなく子供よ。
この本を、何かしらの警告だなんて思ったことはない。警告の意味を持った物語にしたければ、「気をつけないと、私のようになってしまうわよ」という視点で書かなければならないわけだから。それにね、実のところ、私は自分の半生を素晴らしいものとさえ考えているの。生きているのが楽しいの。物を書いて生活できているということも、親密さと歓びに満ちた関係を友達と築けているということも、本当に幸せなこと。世界を見たいと思いながら大人になって、今それができているということ——この1月、ニューヨークの友人たちが寒さに凍えているとき、私は南アフリカで、照りつける太陽の下、馬に乗っていたのよ。健康であること、結婚したいと思う相手がいるということ——そういった人生の恵みに感謝するとともに、私が家に作っている花壇や、ニューヨーク中に増えているレンタル自転車のサービスといった、生活のなかの小さな喜びにも、生きる喜びを感じる。ニューヨークをレンタル自転車で走るのは本当に気持ちいいの。言うのが恥ずかしいけれど、私はいつも、口笛を吹きながら自転車を走らせてるの。ダサいでしょ……なんでこんなことを話してるのかしら……。
子供はもう産めない。モンゴルからアメリカに帰って数年の後に、何度も試したけどダメだった。妊娠するために、お金も使い、感情もすり減らし、体も疲れ切って——そこまでやって、もう「これは、子供はもう産むなということだ」と認めざるを得なかった。心の底から望んでいたけれど、これはやはり、『人にはどれだけ望んでも手に入れられないものがあるということなんだ』、とね。それはとても辛いことだったし、今でも辛いけれど、生きるうえで痛みは避けては通れないものなのよ。
こんなことがあった。子供がいる仲良しの友達に、「人生においてとても重要なものを、私は経験できないのかと思わずにいられない」と言ったら、その友達は、「私は夫のことを愛していないし、これまで一度として愛してると思ったことはない。人生においてもっとも重要とされるものの一つを得ずして、私はこのまま死んでいくんだわと思う」と言ったの。優しいと思うと同時に、なんて賢いことを言うんだろうとも思ったわ。
フェミニズムに騙されてきたとは思わない。あらゆる意味でね。子供が欲しければ、肉体的にそれが可能なうちに子供を作るべく取り組めば良いんだとずっと分かっていた。私は子供を優先順位の最上位とは考えてこなかったの。今でも母親になりたいと思うし、なれるものなら今からでもなりたい。でもこれまでの半生を振り返ってみると、私の人生は私が子供だったころに描いたとおりに、ほぼなっているのよ。
フェミニズムは、「女性は人間であり、女性には、人間として当然与えられるべきものをすべて享受して生きる権利がある」と唱えている。でもね、それは、望んだものすべてを手に入られるということではない。それは人生の理に叶っていないの。
今回の本では、驚きのロマンチック・コメディ的エンディングが描かれていますね。お願いだから教えてください――南アフリカであなたを治療してくれた医師とは、いまどんな関係にあるのでしょう?
ロマンチック・コメディ的? エヴァ(この記事の著者)、これまでの長い友情関係において、これはあなたが言った中でもっとも意地悪な形容よ!
でも、そうね、ばかげた展開よね。私自身、本当にバカみたいだと思うもの——南アフリカ人医師と恋に落ちて、今度結婚するわ。
でも、恋に落ちて結婚を決めるなんていう展開になる前に、本は書き上げていたのよ。現実としては恋に落ちそうだという気がしていたけれど、本としては、恋がすべてを正当化してしまうような終わらせ方をしてはいけないと考えた。実際の人生において、恋ですべてが帳消しになるなんてことはないわけでね。恋に落ちても、息子を失った悲しみや、前の結婚が終わってしまったことの悲しみが消えることはない。だから、「そこへ王子様が現れ、お姫様を救い出しました」というようなエンディングにはしたくなかったの。現実として、自分よりも17歳も歳が上で、ようやくふたりの子供もの子育てが終わり、今は南アフリカに暮らしてモンゴルで働く医者と、一から関係を築いていくというのは——特に、自分が子供を授かりたいと渇望しているときには——、控えめに言っても簡単なものではないもの。
とはいえ、この4年間で、関係は確固たるものに発展したわ。あの人のことが大好きなの。心からね。