映画『あの頃ペニー・レインと』にこんなシーンがある。LSDでヘロヘロになったラッセルが屋根の上から仲間たちを見下ろし、数秒後に下にあるプールに飛び込むのだ。「俺は輝ける神だ!」彼は盛り上がる仲間たちに向かってそう叫び、連れの若きジャーナリストに指をさして最後の言葉を告げる(「俺はヤク中だ!」と)。ラッセルはわずかに静止してからプールに飛び込むが、無事だった。ああ神よ、そなたの名は、“ミュージシャン”。
だがもちろん、みんなの救世主ビヨンセ(Beyoncé)を見ればわかるとおり、真の「輝ける神」なら“自分は神だ”と表明したりしない。神であることを暗示したり、宗教的イメージに支えられることはあるかもしれないが、ポピュラー・ミュージックの大物たちは謙虚にも、彼女たちの称号や神としての姿を、私たちに決めさせてくれる。そして人はそんな存在に近づこうとして、彼女たちの姿を真似るのだ。せめて美的な面では近づきたい、と。
「ミュージシャンは神だ」という考えは、いつしか身につき、絶えず進化する。そういう私は10歳くらいのとき、エマ・バントン(Emma Bunton)になりたかった。けれど2000年のポップ・ミュージックに続き、(私が歳を取り過ぎて見習えなかった)ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)、(私が恋していた)ボーイ・バンドや、(盛り上げる)ポップ・パンクの波がやってきた。恥ずかしいけれど、グランジのバンドであるシルヴァーチェアー(Silverchair)のことを2003年になるまで知らなかった。しかしその年、私は感情の嵐とギターのリフを浴び、フロントマンのダニエル・ジョーンズ(Daniel Johns)を「輝ける神」と崇めはじめたのだ。
その後情熱が薄れたとはいえ、当時そう思ったのには理由があった。上半身裸で歯をむき出し、ギターを弾く姿。私が目にしたのは、そんな姿がたまらない、かの有名なバンドマンだったのだ。そんなヒエラルキー、つまり「ミュージシャン=神のような存在」だという考えは、私の心に浸透していた。だから、ある種のミュージシャンたちは、かっこいい曲を作るだけでなく文字どおりにも比喩的にも、みんなを圧倒する存在に思えたのだ。
「清潔は敬神に近し」という諺にならえば、体や身の回りを整えることで、人は神の姿に近づけるのだ。
今となってようやく、賞賛されつつある考えがある。それは、神として存在するポップ・スターを真似たいという私たちのあけすけな気持ちを、昔より馬鹿にされなくなっているということだ。かつて「ミーハー」とは、音楽スノッブ(と退屈な大人)が口にする侮辱の言葉だったが、ソーシャルメディア上の若いファンたちが別の意味に再生させた。そのおかげで、ポップ・スターはファンから敬い讃えられている個性を誇り、同時にファンを誇りたいと思っているということが、よく知られるようになった。なんといってもポップ・スターとは危険を冒し、意見を語り、我々凡人にはできない振る舞いをする存在。だからスターと交信するのは喜びだし、自分たちが彼らのようにはなれないなら、姿を真似ようと考えるのだ。「清潔は敬神に近し」という諺にならえば、体や身の回りを整えることで、人は神の姿に近づけるのだ。
今年のグラミー賞でビヨンセは本物の女神となっていた。黄金に包まれて輝き、彼女の双子の子供たちという生命という奇跡を祝福した。ビヨンセの妹のソランジュ(Solange)は、肖像画用にしつらえたようなメタリックの服を着て、聖者さながらにレッドカーペットに現れた。その一週間前のスーパーボウルでは、レディー・ガガ(Lady Gaga)が空からパフォーマンスをした。観客の頭上にいくつかの物語を吊るしたあと、人々のもとへ降りて歌い踊った。キラキラと宝石のように光を放ちながら。
これまで男性アーティストは彼らのロックやポップのスター性を利用して、自分たちは神のような存在だという態度を示していた。そこには、ファンを引き寄せたりファンと寝ようという目的があったのだろう。だが、彼らとは違い、女性ポップ・スターの神々しさは、女性にパワーを与える。そう、私がビヨンセ・ノウルズを世界の果てまで追ったほど(みんながそうしたわけじゃないが)。でも彼女のエートスは消えなかったし、抑え込まれることもなかった。ビヨンセはただ、音楽とライブパフォーマンンスを通じて、歌声を聴こうとする者たちの自立心や、自分なりの強さ、社会と政治への意識を励ましてきたのだ。彼女のパワーは、人を呼び寄せていつまでも献身させようとするためにあるのではない。人は決意すればものごとを実現でき、より良い人生を送れるということを伝えるためにあるのだ。いわば彼女は自分の教会の長であり、カルトのリーダーではない。
私たちが出会う(そして真似したくなる)神たちは、代わる代わる現れる。崇拝するポップ・スターたちにとって、メイクは仮面であり盾といえるだろう。世界へ向けた自分と、自分のための自分とを区別する手段なのだ。これはつまり、私たちがレッドカーペットにいる彼女たちの姿や、(レストランからワインを持ち出すときの)リアーナの格好からメイクを熱心に学ぶとき、私たちはパフォーマンスを再現しているということでもある。そして私たちは、“コスメが自分を神のような姿に変えてくれる”と言い聞かせながら、妖精の粉のようにそれを使うことになる。ハイライトとコントゥアリングによるパワー。そこにはもっと特別なパワーがあるのだろうか。メイクに親しんできたものとしては気になるところだ。
本当のところ、現代においてファンとポップ・アーティストとの関係は、ブロンザーを使うのを真似ることにとどまらない。私たちは子供じゃないし、ストレート・パーマをかけたらエマ・バントンに近づけることはわかっている。つまり、私たちにとってメイクは変身するためのツールであり、大切なパワーを讃える手段でもあるのだ。そのパワーを利用して盾と仮面を作り、一晩、一週間、あるいは次のアルバムが出るまでの間、誰の姿なっていようか考える。神となったビヨンセを、空飛ぶ修道女となったレディー・ガガを見ても、あるいは、今風に魂を啓蒙するポップ・スターを見ても、彼女たちをコピーしようとして見た目を再現したりしない。崇拝するのだ。すると私たちにも神のような威厳が生まれる。
私たちは、コスメが自分を神のような姿に変えてくれると言い聞かせながら、妖精の粉のようなそれを使うことになる。
それが昔のポップ・スターと現代のポップ・ゴッドとの違いだ。かつてポップやロックのアーティスト(主に男性)がミッションとしていたのは、ファンとの関係で力が強いのは誰なのかを知らしめることだった。業界を変えてきた女性たちは、ある種の教会を作り上げようと努力してきた。そこは私たちが最高の自分になれるように励ましてくれる、安全な空間。昔は音楽の神に好感をもたれようとしておしゃれをしたが、今は自分自身をアゲるために着飾る。オフィスでつけるには勇気のいる色の口紅を塗り、十代の頃に夢見たようなキラキラした服を見にまとい、グラミー賞にふさわしい香水を振りまき、自分の顔をキャンバスのように大切に扱う。システィーナ礼拝堂の天井にある絵のように。まるで「輝ける神」のように。
かつて私は、オーストラリア人のフロントマンという祭壇で礼拝をしていた。彼のことを私より優れた人だと思ったのは、彼がギターを抱えてたからだ(私は無数の男を同じように分類しただろう)。でも今ならわかる。もっとも目をひくポップ・スターは“神”ではなく、誰もが神になれると気づかせてくれる人間のことだ。フットボールのハーフタイム中にスタジアムの屋根から飛び降りる必要はない。手の届かない存在になれそうな口紅と、香水と、アイシャドウを選ぶだけでいい。