穏やかな見た目とは裏腹に、思慮深く情熱的な雰囲気を持ち合わせるエレン・ヴァン・スカイレンバーチ。かつて内向的だった少女はダンスに出逢い、ネザーランド・ダンス・シアターに所属したのち、崇拝する振付家マース・カニンガムの元で学んだ。そして、あの悪名高きコンセプチュアル作品『New Puritans』でマイケル・クラークのダンスパートナーを務めるなど、世界を舞台に踊り続けてきた。集中力と精神力を要するフィジカリティ(肉体性)を通して自分を表現するという、その衝動や情熱は見事としか言いようがない。従来、バレエ界は男性ダンサーと女性ダンサーで構築されてきた。しかしエレンの穏やかなアンドロジニー(両性具有)は、マイケル・クラークとの作品と溶け合うことで、とりわけその見えない壁を取り払う一端を担ったのである。彼女は果たしてどのようにして、その境地へと辿り着いたのだろうか。
何かに対して情熱を抱くというのは、人生で常に直面する様々な問題から逃げるための、一種の方法だと思うの。
献身的姿勢、鍛錬、そして現実からの逃避
何かに対して情熱を抱くというのは、人生で常に直面する様々な問題から逃げるための、一種の方法だと思うの。生きるため、つまりお金を稼ぐためには働かなくてはならないでしょ? でもスタジオにいるときは、そうやって現実から逃避しているのね。それが私のアートなの。ダンスは、エンドルフィン(快楽ホルモン)を分泌してくれて、文字通り気分がハイになる。すごく満足感が得られるの。ダンスはたくさんの幸福感をもたらしてくれるわ。とはいえ、本気でプロのダンサーになろうと思うなら、すべてがダンス中心になるから、超利己的にならざるを得ないけどね。いかなるものも、献身的な姿勢と鍛練によって決まるわ。鍛練自体はそのことに夢中な限り、そう大したことではないでしょうけどね。私がオランダでダンスを始めたときは、とにかく優れたダンサーが集まる、大きくて有名なダンスカンパニーに入りたかったの。その劇団はレパートリー・カンパニーだったんだけど、やがてその型の中では演じたくないって思う自分に気づいたわ。一人の振付家のために演じたかったの。じゃあ当時、世界一情熱的で素晴らしい振付家は誰だったのか? マース・カニンガムよ。彼のところへ行くしかなかった。そして私は行ったのよ! 1970年にオランダで、彼のグループの公演を観て、すっかり恋に落ちてしまったわ。
心を開く
私が観た作品は、新しい視点をもたらす美しいカオスだった。ある作品では、ジョン・ケージが作曲した音楽が使われていて、彼は客席にいながら銃を撃っているの。まさに、先入観に対するアヴァンギャルドなメッセージだったわ。先入観が作用しない、そういったものが一切ない世界なの。そこには、美しい装いの観客がいて、3人の美しいバレリーナがアダージオを踊っていたわ。すると、自転車に乗ったマース・カニンガムがやって来て、ステージ上を漕いで回るの。そして踊り始めるのよ。すっかりハマってしまったわ。そして私は、何としてもニューヨークに行きたいってバレエの先生に伝えたの。すると彼らは、ニューヨーク留学のために、1年間分の奨学金を用意してくれたわ。1978年のことだった。それまでは育った町で生活するだけで、あまり外に出ることがなかったから、ニューヨークへ行くというのは、突然自分が自分らしくいられるようになるっていうことだったの。マースは、それぞれの動き方や生まれ持った個性、ほかにもクラスでの取り組み方や注意・関心の向け方、空間の使い方など、そういったところを見ていたわ。
楽しむ
私が有名になったのは、偶然なのよ。そのとき私は、バワリー通り沿いの酒屋さんの上にあるロフトに住んでいたの。同じくダンサーだった2人の女の子と、ミュージシャンをしていた男の子とね。そのころある人から電話がかかってきて、歌手のシンディー・ローパーの「Girls Just Wanna Have Fun」のミュージックビデオに出るオーディションを受けてみないかと誘われたの。そのとき求められていたのが、イースト・ヴィレッジ風の風貌と、ダンスが踊れること。私はオーディションに行って振付を習い、結果受かったわ。シンディ―はとても素敵な人だった。彼女は、イメージ通りに見せるため、私たちに自分の服を着せてくれたのよ。そしてこの曲はMTVに出て大ヒット。それからはどこに行っても、みんな私に気づいて歌いかけてくれたわ。
志を共にする仲間との出逢い
ダンスフェスティバル「Dance Umbrella」に出演するためにロンドンに来ていたとき、マイケル・クラークと出逢ったわ。彼とは、マース・カニンガムのスタジオで出逢って友達になったの。私たちは、同じバンドに夢中だった。特にThe Fallとかね。とにかくそういうバンドが大好きだった私が、1983年にロンドンにやって来たとき、マイケルから一緒に踊らないかって誘われたの。もちろん、快諾したわ。それから私たちは、稽古を始めたものの、当時の私は住む場所がなくて。それで、ウェストボーン・パークでマイケルと一緒に暮らしたのよ。そのころはほとんどお金がなかったわ。そのとき衣装を作ってくれたのが、リー・バウリー。そしてマイケルと私のデュエット作品『New Puritans』を撮影してくれたのが、ジェフリー・ヒントンよ。マイケルは私に、このままロンドンにいたいか?って尋ねてくれて、結局留まることにしたの。そして彼は、リーやトロージャン、それに美術家のアンガス・クックやケリス・ウィン・エヴァンスなど、あらゆる友人を紹介してくれたわ。そんな仲間がすぐにできたのは、本当によかった。そうじゃなければ、すごく寂しかったでしょうね。マイケルと私は1990年まで踊って、その後2009年『Swamp』での共演以来、またペアを組むようになったわ。当時のマイケルの作品は、なんといっても自分たちの周りで起きていることが作品の中に織り込まれていて、素晴らしかった。それに当時は友達に本当に恵まれていて、それが作品に影響していたわ。私たちはまさに一つの仲間だった。共にいるときの高揚感、そして生きているっていう実感があったわ。マイケルが出すアイデアをまるごと受け入れると、うまくいったのよ! まあ、お堅い批評家たちには、受け入れられなかったけどね。「そんなことできるはずがない」って彼らは言うの。だからこそ、私たちは何としてでもそれをやったわ。
私は、女性というだけで決まったレールに乗せられるという考え方が、とても嫌だったの。
反抗
私は、女性というだけで決まったレールに乗せられるという考え方が、とても嫌だったの。結婚して身を固め、そして面倒を見てもらうというのは、私は違うと思うわ。人はそれぞれの関係性の中で平等であるべきで、男女も完全に平等でなければいけないと思うの。上から目線で話してくる男性なんて、耐えられない。すごく腹が立っちゃうわ。私はやりたいことをやれている自分の人生に、本当に満足しているの。そして今、私は62歳。それは自分にとって、とても大事なことよ。そして私はダンサーとして、矛盾している部分がある。見た目も話し方も穏やかな一方で、内には情熱と勇気が満ちあふれているから。一見弱そうに見えるけど、実は鉄でつくられたような人間だった、みたいな人いるでしょ?そういった人の中に、同じような矛盾が垣間見えるわ。例えば、PJハーヴェイとかね。彼女はやるべきことをやっている。私は彼女に教えられたわ。認められていないどんなことでも、私たちはやることができるんだって。「インテリ」ぶってる? だったら、何なの? そんな感じだった。マイケルが私を誘ったのは、バレエが堪能だったからだけじゃなく、マース・カニンガムの元でトレーニングしてきたからじゃないかしら。短髪に大きな茶色の目を持った私は、少しアンビバレンス(両面性)で、少年のようなエネルギーを持っていた。そして自分自身を、男性ダンサーと同じ位置に置いていたわ。私たちはポップとロックミュージックが大好きで、芸術に対しては計り知れない情熱を持っていた。そのためなら何でもやったわ。
自分らしく
私のダンスの先生は、干渉をしなかったの。踊りの提案や直してくれることはあっても、その人が美しいと思うものに対しては、決してどうかしようなどとはしなかったわ。私たちは、良い悪い、あるいは醜いといったコンテクストの中で、物事を評価することはなかった。ただ唯一必要だったのは、その人自身よ。ダンスは私の生きる道になった。そして死ぬときまで、ダンスと共に居続けると思うわ。私たちは、自分の情熱にどうやって身を置き続けるのかを知っていなくてはならない。変な話、その時代の経済だって、その一部なのよ。賢くなくてはダメ。でも現状に屈してはならないわ。それを乗り切る方法を、ぜひ見つけてみて。