愛がレモンで香るとき

ひとつの感覚が刺激を受けると、その他の感覚が反応して、存在しない現象を生み出す、“共感覚”。作家アリックス・フォックスには、その“共感覚”がある。五感が刺激されると香りの幻覚が現れるのだ。

まだ私が子どもだったある夏の日、祖父母とサフォークのカントリーを散歩したことがありました。地元の教会で飼われていた栗色のポニーに、私は手のひらに乗せた角砂糖を食べさせました。そして雑草が生い茂る草原を、枯れた長い草を掻き分けて歩き、バッタとにらめっこをしたりした記憶があります。バッタたちの大合唱が響き渡る草原は、照りつける夏の陽のもとじりじりと燃えているかのように暑かった——未舗装の道路脇には太い木製の電柱が横積みにされていました。起こされ、設置されて電気を流す役割を任されるのをじっと待っているかのようにそこへ積み上げられた長い木の電柱——それは、6歳の私に平均台を使ったサーカス芸を連想させました。私はその上によじ登りました。

クレオソートが塗られた木製の電柱からは、樹液やタールが滲み出ていました。履いていた真っ赤なTバーの靴の裏に、私はそれを感じることができました。見渡すと、灼熱の暑さに地平線はまるで低予算映画に見る夢のシーンのようにゆらゆらと揺れていました。陽炎です。1988年に大流行していたソバージュの髪の間に、カサカサと音を立てそうなほどに乾いた空気を感じたものです。照りつける太陽の光に、電柱は化学薬品と松の木の独特な香りを放っていました。

キングス・クロス駅構内にある特定の階段を上がるとき、あれと全く同じ香りを感じることができます。

私が持つ共感覚は、比較的稀な類いの共感覚です。それは、実際には存在しない香りを嗅ぐことができる、「香りの幻覚」ともいうべき類いの共感覚。

ロンドンの地下鉄は、夏のサフォークとはまったくの別世界。キングス・クロス駅の階段には、あの香りを発しそうなものなど何一つありません。そして私をおいて他には、誰もそれをあそこで嗅いだことはありません。なぜなら、その香りは実際のところそこには存在していないからです。

私は共感覚の持ち主。ひとつの感覚が刺激を受ける——たとえば視覚が刺激されると、味覚や触覚といった他の感覚が反応して、そこに実在しない現象を生み出す——それが共感覚。英国民医療保険サービスによると、現在イギリス国民全体の4%がこの共感覚を持っているそうです。しかし、共感覚とひとことで言っても、その表れ方はひとによって大きく違います。文字を読むと口の中にフレーバーを感じるという人もいますし、音楽を聴くと形や色が見えるという人もいます。

私が持つのは、比較的稀な類いの共感覚です。それは、実際には存在しない香りを嗅ぐことができる、「香りの幻覚」ともいうべき類いの共感覚。特定の感情が巻き起こったり、知り合いと予期せぬ再会をしたり、懐かしい場所を訪れたりしたときに、実際にはそこに存在していない香りが姿を現します。そこに感じる香りはとてもリアルで、息を吸い込めばきちんと強く香ったりして、わたしはときに圧倒されてしまうこともあります。

リバプール・ストリート駅のコンコースでは、埃や髪の毛がいっぱいにつまった紙パック式掃除機を嗅ぐことができるし、フィンズバリー・パークではベジタリアン・フードが香ります。レイトンでは鼻の奥にJohnson and Johnsonのベビー・シャンプーを嗅ぐことができます。ユーストンでは、降る前に雪が香るあの凍てつくような寒さが香ります。

嗅覚で体験する幻覚を、私は嬉しく思いますし楽しんでいます。私が体験する幻影のエッセンスは、ほとんどの場合、夢見心地の感覚を伴います。嗅覚で夢の世界が目の前に広がる感覚です。それは素晴らしく不条理な4Dのマジックのような世界です。

共感覚に混乱し、不快な思いをしたり、悲しい思いをしたりすることもまたあります。

ストレスは、使用済みの生理用品を捨てたりするためのサニタリー・ボックスの悪臭となって私の嗅覚を刺激します。あの、血と体液と混じった、あの鼻をつくような感覚です。吐き気すら誘発して、落ち着こうとしても不快さが増長されます。

以前おつきあいをしていた相手は、グリーンハウスでまだ熟しきってはいないトマトの香りを発していました。鼻を刺激するクロロフィルのあの香りに、私は「もっともっと」と夢中になりました。そしてあの香りはまた陽気な子供時代を思い起こさせました。安心の香りです。おつきあいしていたその男性、実際には魚の香りなどしなかったのですが、私はいつも嗅覚で彼に燻製ニシンを感じていました。彼は嘘つきでしたが、彼のフレグランスに惑わされて私は彼を信用してしまいました。香りの幻覚は、ときにあまりに圧倒的すぎて、私の現実世界を揺るがすほどの意味を持ってしまいます。彼とはもっと早く別れるべきでしたが、私は自分の直感を信じるべきか、それとも嗅覚を信じるべきか判断がつかず、関係を長く続けてしまいました。

内面も外見もとても素敵な男性とおつきあいしたこともあります。でも彼と会うと、決まってそこには安いポリエステルとプラスチックの香りが漂いました。イッセイ ミヤケの香水をどれだけつけていてもです。彼はとても落ち着いた大人の男性でしたが、不気味なほどにフェイクな香りがするひとでした。私は見て見ぬふりをしましたが、それでもやはり心から安心できなかったのは確かです。

共感覚が私の中に頭をもたげ始めたのは、おそらくティーンの頃だったのだろうと思います。17歳でウェイストレスとして働いていたときに、重度のアレルギー反応が体に現れたんです。未だに原因は判っていないんですが、あの日、シフトを終えて家に帰るまでに私の顔は完全に腫れ上がってしまっていました。私が暴行に遭ったと母が勘違いしたほどです。耳も腫れて塞がってしまったため、何も聞こえない状態になり、最終的に気を失いました。意識が戻ってから数年の間はてんかん発作に悩まされました。共感覚は脳へのダメージから生まれることも多いそうです。ダメージを受けた脳が、間違った情報伝達をしてしまうのだそうです。

ジュリエット・スライド(Juliet Slide)も、歩行者用の交差点を歩いていた時にバスと接触し、頭に大怪我を負ったことで、私と同様、香りの幻覚を体感するようになったそうです。「ストレスを感じるたびに、燃えるプラスチックの香りを鼻の奥に感じるようになった。一方で、シナモンの香りは決まって静穏の感覚を伴うようになり、それはスピリチュアルなエクスタシーの域にまで達するようになった」と話しています。「治癒が進んで神経が再生され、灰色の物質がアイビーのように広がってクモの巣のように瘡蓋を覆っていくと、鼻に感じる香りの刺激がことごとく変化した。ある時、走る車の外に芝刈りをしている人が見えた。その瞬間、私の嗅覚は野菜料理の香りを感じ取った。私の脳が、視覚で捉えたものと香りの正しい記憶を結びつけることができず、“緑”というキーワードで野菜の香りと結びつけた結果だった。私は大声をあげて笑ってしまった」と。

「昨日、圧倒的な平和の感覚を伴う、焼きたてのクロワッサンの香りを嗅いだ」

10年前に心臓発作で命を落としかけた後、共感覚が芽生えたスコット・マタヤ(Scott Mataya)。彼の共感覚は複雑にして特殊で、たとえばラズベリーの味を特定のブルーとして認識したり、危険なひとや嘘をついているひとの周りにはチカチカと瞬く光やキラキラと飛び回る音が現れるというのです。また、楽器は音とともに花束を奏でるのだそうです。

そして、私のように、彼の生活においてもっとも温もりあるひとときもまた共感覚に大きく影響を受けているといいます——そのひと時とは、セックスです。

どのように、そしてどこに刺激を感じるかによって、私はオーガズムにHariboのKiddies Supermix(数あるスイーツの中でなぜここまで不適切なお菓子が選ばれているのかはわかりません)や赤甘草リコリス、カスタード・ドーナッツの香りを感じたりします。そして、これまで私が最も激しい快感を伴ってクライマックスに達したのは、濡れた培養土とジャスミンの香りに包まれてのことでした。私のベッドルームに置いてある植木の香りです。私は絶頂に達する快感の向こうに、感謝の気持ちでいっぱいのまま生き埋めになる感覚をおぼえました。

スコットは射精するとき、土の香りとランの香りを感じ、オレンジ色や紫色の霧とおぼろげな光を感じるのだそうです。スコットのボーイフレンドが何の変哲もない石鹸で体を洗った後には、「彼の体がチェック柄のピクニック・シートになる」とも言っています。

スコットとジュリエット同様、私の共感覚はおそらく脳への衝撃による後遺症でしょう。脳神経が伝達を誤り、私の嗅覚を騙すわけですが、そこで垣間見る体験があまりに甘美なとき、私は自分の共感覚を病気だなどとはとても思えません。

バーチャル・リアリティを用いて個人の体感を再現しようと共感覚オーガズムを研究しているポーツマス大学のトルーディ・バーバー(Trudy Barber)博士にいつかお会いできたらと思っています。バーバー博士とともに何かを作り出せれば、正常な神経学的機能しか持っていない人たちも、胸いっぱい吸い込む愛や、短く洩れた息に香る至福の瞬間を見ることができるようになるのかもしれません。

共感覚を鼻で笑ってはいけない——共感覚は素晴らしい能力です。

This Week

和洋新旧の混交から生まれる、妖艶さを纏った津野青嵐のヘッドピース

アーティスト・津野青嵐のヘッドピースは、彼女が影響を受けてきた様々な要素が絡み合う、ひと言では言い表せないカオティックな複雑さを孕んでいる。何をどう解釈し作品に落とし込むのか。謎に包まれた彼女の魅力を紐解く。

Read More

小説家を構成する感覚の記憶と言葉。村田沙耶香の小説作法

2003年のデビュー作「授乳」から、2016年の芥川賞受賞作『コンビニ人間』にいたるまで、視覚、触覚、聴覚など人間の五感を丹念に書き続けている村田沙耶香。その創作の源にある「記憶」と、作品世界を生み出す「言葉」について、小説家が語る。

Read More

ヴォーカリストPhewによる、声・電子・未来

1979年のデビュー以降、ポスト・パンクの“クイーン”として国内外のアンダーグランドな音楽界に多大な影響を与えてきたPhewのキャリアや進化し続ける音表現について迫った。

Read More

川内倫子が写す神秘に満ち溢れた日常

写真家・川内倫子の進化は止まらない。最新写真集「Halo」が発売開始されたばかりだが、すでに「新しい方向が見えてきた」と話す。そんな彼女の写真のルーツとその新境地を紐解く。

Read More

動画『Making Movement』の舞台裏にあるもの

バレリーナの飯島望未をはじめ、コレオグラファーのホリー・ブレイキー、アヤ・サトウ、プロジェクト・オーらダンス界の実力者たちがその才能を結集してつくり上げた『Five Paradoxes』。その舞台裏をとらえたのが、映画監督アゴスティーナ・ガルヴェスの『Making Movement』だ。

Read More

アーティスト・できやよい、極彩色の世界を構成する5つの要素

指先につけた絵の具で彩色するフィンガープリントという独特の手法を用いて、極彩色の感覚世界を超細密タッチで創り出すアーティスト・できやよい。彼女の作品のカラフルで狂気的な世界観を構成する5つの要素から、クリエーション誕生の起源を知る。

Read More

ハーレー・ウェアーの旅の舞台裏

写真家ハーレー・ウィアー(Harley Weir)が世界5カ国に生きる5人の女性を捉えた旅の裏側、そして、ドキュメンタリー映像作家チェルシー・マクマレン(Chelsea McMullen)が現代を象徴するクリエイターたちを捉えた『Making Images』制作の裏側を見てみよう。

Read More

『Making Codes』が描くクリエイティヴな舞台裏

ライザ・マンデラップの映像作品『Making Codes』は、デジタルアーティストでありクリエイティヴ・ディレクターでもあるルーシー・ハードキャッスルの作品『Intangible Matter』の舞台裏をひも解いたものだ。その作品には、プロデューサーとしてファティマ・アル・カディリが参加しているほか、アーティストのクリス・リーなど多くの有名デジタルアーティストが関わっている。

Read More

ローラ・マーリンが表現する、今“見る”べき音楽

イギリス人のミュージシャン、ローラ・マーリンのニューアルバムに満ちている“ロマンス”。男っぽさがほとんど感じられないその作品は、女性として現代を生きることへの喜びを表現している。

Read More
loading...