レイチェル・マクリーン(Rachel McLean)の今という瞬間は、とても輝いている。最近ジャーマン賞にノミネートされ、2017年にはスコットランド代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに参加する準備中の真っ最中であり、また彼女の過去最大の展覧会「Wot You :-」 About? (これ知ってる?)」がつい先日マンチェスターの美術館〈ホーム〉で始まったのだ。今月中には、少し規模を小さくした同じ展覧会がロンドンの〈テート・ブリテン〉で開催される予定となっている。映像や印刷物、写真、そして今や彫刻を通して、マクリーンはソーシャルメディア、それらのアイデンティティに及ぼす影響、テクノロジー、権力構造にアプローチしている。そのエネルギーと色彩にあふれたファンタジー世界から繰り出されるのは、現代のカルチャーへの痛烈な批判だ。今回The Fifth Senseは、その創作をもっと深く知るべく、展覧会初日の午後にインタビューを試みた。
コントラストと並置
魅力的な何かを感じられる作品をつくるのが好きなの。ポップカルチャーのほとんどが魅力いっぱいでしょ。そうすると、消費衝動が生まれるから。欲望をかきたてる性質が備わっているのよ。でも同時に、それと正反対のものも内包しているわ。感情むき出しのものや、暴力的なもの、不安をかきたてるものが存在して、魅力を感じている最中に襲ってくるの。このシリーズは商業用の素材にプリントしてあるのよ。そうすると光沢が出て、広告みたいに見えるでしょ。Googleのような会社っておもしろいわ。幼児化した大人の世界と商業世界、仕事の世界が混じりあっているところだから。そういう意味でGoogleの会社って、保育所とか子どもの遊び場みたいよね。そういう会社がつくるものってピカピカで無害なんだけど、根底にはダークで腹黒いものが渦巻いているの。その感情で遊ぶのが好きなの——その上部と下部にあるもの。それから、顔文字や感情を表す絵文字にも興味があるわ。この独特の言葉に込められたかわいさを引き出したいと考えたの。だから、このエキシビションのタイトルにも、かわいいスマイルの絵文字をつけたというわけ。ただし、もっとアグレッシヴで反抗的な意味をもたせてね。何を笑ってるの?って。
風刺の力
コメディが大好きなの。たくさんの風刺コメディを見て育ったわ。『ザ・ファスト・ショー』、『ハリー・エンフィールド』、『リーグ・オブ・ジェントルマン 奇人同盟!』、『マイティ・ブーシュ』。風刺を織り交ぜた、ダークなコメディね。それに私は長い間エディンバラに住んでいるから、フェスティヴァルでもたくさん見たわ。実験的なコメディと、文化を皮肉るためにそれが使われる方法に興味があるの。それに、ウィリアム・ホガース(William Hogarth)[訳注:18世紀のイギリスの画家]とかトーマス・ローランドソン(Thomas Rowlandson)[訳注:18〜19世紀のイギリスの風刺画家]みたいな古典的な人たちからインスパイアされることもあるのよ。彼らの風刺画の使い方や、政治家や階級社会を皮肉るときのグロテスクなアイデアとかね。
アバターになる
子どもの頃、家庭用のビデオカメラでいろんなものを熱心に撮影していたの。でも、自分の頭の中のイメージをうまく再現できないことに、よく苛立ちを感じていたわ。そんなとき、ブルーバックに出会ったの。それを使えば、すごく簡単でしかもローテクにイメージを具現化できる。作品がより一層練り上げられたものになったわ。衣装や小道具、メーキャップにも力を入れて。作品の主題を自分自身にするというパフォーマンスアート的な手法を用いるようになったんだけど、実際は違う方向に進んでいったわ。そこに出ているキャラクターは私そのものじゃなくて、違う人格になったり、その人格を引き寄せるアバターであるかのように自分自身を扱うようになったの。そのニセモノ感が気に入ったわ。俳優に演じさせるのとも違う。俳優には、こういうふうに見えてほしい、声を出してほしい、体を使って表現してほしいと最初から考えて配役を決めるでしょう。私の作品には、つくった感がほしいの。このエキシビションのテーマはナルシシズム。自己と個性の世界よ。自撮りとか、プチセレブになることとかね。そして、自分自身を唯一のキャラクターに仕立てて、そのセルフコンシャスでナルシストな世界にハマり込んでみるのはどんな感覚なのかということも気になっていたわ。
インターネット時代におけるアイデンティティの危機
感情とかカタチのないものがどのようにテクノロジーによって捕らえられ、アップルウォッチみたいにデータ化されて保管されるのかも知りたいと思ってる。最後には、自分をゲームか何かのように感じるようになるわ。幸せポイントをもっとゲットしようとか、健康ポイントがもっと必要とか。ポイント制による平均化社会って、ちょっと狂ってるわよ。個性とか感情とかそういうものが、どんどん数値化されるようになってる。自己に溺れたこの文化や、それを取り巻く恥知らずなものに、私は批判的なアプローチをしていきたいの。どんどん現実とかけ離れていくネット上のアイデンティティに対する不安の高まりを注視しながらね。ネット上で主流の現実は、ジェンダーへのありとあらゆる不安さえも煽っているわ。女の子たちが、見た目とか体型に対する思い込みから逃れられているようには思えない。それどころか、常に写真を撮られるという緊張感にとらわれているわ。この映像には「It’s What’s Inside That Counts(大事なのは中身)」というタイトルがつけられているの。だってネットには、星の数ほどメイクのハウツー動画があるじゃない。みんな見た目やそのコントロールにご執心でしょ。だけど、第3次フェミニスト運動的アイデアを取り入れたこの映像では、中身が大事なんだって訴えかけてるの。美しさとは何か、それが何を意味するのかというメッセージが、最後にはごちゃまぜで奇妙なものになってしまうのよ。
気づきの乱用
仏教文化の “気づき”という考えには、本来とても深い意味と由来があるわ。でも資本主義、とりわけテクノロジーの世界において、その意味が書き換えられてしまったの。常にデジタルと共にある現代資本主義のメカニズムに折り合うように成長したと言ってもいいかもしれない。社会的観点から、私そこにちょっといかがわしいものを感じるの。何でもかんでも個人にすべてをなすりつけ、その人の経験を意味づけるから。つまり、もしネガティヴな体験をしたら、それはその人が間違った行いをしたから。社会そのものは悪くないし、変わる必要もないって具合にね。もちろん、真実をついている部分もあるかもしれない。でも、政治的無関心に結びつく可能性があるから、危険なの。仕事とか社会で不当な扱いを受けたら、怒るのが生産的。弱気になる必要などないわ。
あいまいなデータ
テクノロジーやネット上のデータと同じく、名前や生年月日など、アイデンティティのデータというものも存在するわ。国境を越えて、世界の1人として生きるための情報よ。それがなかったり、書類を持たない難民や移民だったりした場合、すべてが数値化されている世界では、何らかのアイデンティティが欠落してしまうの。私はこう言いたいわ。このデータが示す何の 情報によって、この世界を渡り歩き、生活し、そして生存が確認されている人間として存在することが許されるのか、と。
イギリスのEU離脱と二進法
2017年に開催されるヴェネツィア・ビエンナーレのスコットランド・パビリオンは、もともと教会だったサンタ・カテリーナに置かれるの。まだ考えている途中だけど、たぶんイギリスのEU離脱の影響を検証する映像をひとつ流すことになると思う。スコットランドやイギリスの国民性については、これまでもたくさんの作品をつくってきたわ。イギリス人の、そしてスコットランド人のアーティストとして、ヴェネツィアという土地で、直接説明したり、ヨーロッパにいる意味、もしくはそこから出て行く意味を語ったりせずに自分の国を表現するのは、ちょっと難しい気がするの。EU離脱や、その前に行われたスコットランドの国民投票のことを考えると、過去数年間のイギリスは、本当の意味で二進法だったんだと思う。イエスかノーか、出るか出ないか。私たちの生活も、だんだんこんなシンプルな考え方で決められるようになってきているわ。そして最後には、グレーゾーンや中間点を見失ってしまうの。