ベルリンの悪名高きナイトクラブ、ベルクハインの香り

音楽を楽しむため、もちろん踊り明かすため、酒を楽しむためなど、ベルリンの伝説的ナイトクラブ、ベルクハインを訪れる理由は、人によって様々だろう。しかしイザベル・ルイスには、少し変わった目的があった——香りだ。

「ある夜、『今夜はアルコールを控えよう』と決めたの」とイザベル・ルイス(Isabel Lewis)は言う。「鼻のスイッチをオンにして行こう、と。すると、冗談じゃなく、それまで私がベルクハインで体験した中で最もトリッピーな夜だった。嗅覚を研ぎ澄ますと、そこには圧倒的な体験が待っていたの。階下からは過去30年間のパーティの歴史が香ってきて、そこには大量のスモーク、床にこぼれたアルコール、ひとの汗、整髪料、安物のコロンが香っていたわ」

そんな嗅覚の冒険にルイスが出た目的——それは、調査だった。イザベル・ルイスは現在35歳。ドミニカ系アメリカ人で、現在はベルリンを拠点に活動するダンサーであり、アーティストであり、またDJでもある。これまでにロンドンのフリーズ・アート・フェアやパリのパレ・ド・トーキョー、ニューヨークのディア芸術財団などでもパフォーマンスを披露し、今年3月にはテート・モダンでレジデンシーとなる予定だ。ギャラリーなどで、ちょうど心地のよいパーティとサロンの中間点のようなイベントを開催している。彼女が“Occasion(場)”と呼んで開催しているそれらのイベントは、音楽から内装、食べ物、飲み物、そしてもちろん香りまで、すべての要素が徹底的にキュレーションされた、スピーチとダンスの宴だ。

香りは、来場者を完全に、そして肉体的に、その場と瞬間に引き込む役割を果たしている。彼女は、観客が単に視覚的に目撃する以上の体験として感じてくれるパフォーマンスを目指している。その部屋を満たすエネルギーと、作品の一部になってもらいたいのだ。「香りというものはもともと感情に訴えかける刺激であるべきもの」と彼女は言う。「意識を感知へと導いてくれる——身体に意識を向けさせてくれる」と。香りとは、ひとがまとう武具の中でももっともパワフルな力を持っている——それを彼女は知っている。「香りは他の感覚よりも速く、瞬時に無意識レベルの脳の働きに訴えかけるもの。いつでも私たちが察知する前すでに私たちに様々な刺激と影響を与えているのよ」

“Occasion”では、ノルウェーの化学者でありアーティストでもあるシセル・トラース(Sissel Tolaas)とのコラボレーションによって毎回違う香りを作り出している。「シセルはベルリンに研究室を構えていて、そこには床から天井まである棚に、香りの微粒子を閉じ込めた薬ビンが所狭しと並べられているの」とルイスは話す。ふたりは、“Occasion”で用いる香りを作るため、議論と香りテストを繰り返したという。「研究室に呼ばれ、行ってみると、シセルはもう準備万端の状態で待っていたわ。シセルは私のアイデアひとつひとつに対して8種類ほどの香りを用意してくれていて、私が事前にきちんと食事を済ませ、しっかりと休んで万全の体調であることを確認した上でそれらを嗅がせてくれた。私はひとつひとつの香りを嗅ぎ、事細かに率直な感想やアイデアをぶちまけたわ。もっとこの要素を増やして、これはもっと抑えて、と——そうやって、ふたりが求めた香りを作り上げていったの」

ルイスが捉えようとしていたアイデアは、「21世紀という時代に“良い人生を歩む”とはどのような意味をなすのか」といったテーマから、「人生において知性が持つ重要性」、「西洋文化において身体という存在にかかる抑圧」といったテーマまで、抽象と具象のミックスだった。“香り”というつかみどころのない感覚を頼りに具現化するには、あまりに複雑なアイデアばかりだったが、これがふたりにとってはスタート地点となったという。「もし知性に香りというものがあったら、それはどんな香りになるのか?」とルイスは考える。「シセルと、講堂や化学研究所、病院など、化学に関連する場所の香りについて想像してみたの」。その香りのレシピは、どのようなものになったのだろうか? 「私たちが作り出した化学の香りは、微かにメタリックで、クールな印象が残るような、エアリーなものだった」とルイスは言う。「そこに、フレッシュでありながらも人工的な香り要素があるもの——シトラスやメロンの香りが混ぜられている殺菌剤を思わせるような香りよ」。香水としては爆発的人気とはならないかもしれないけれど、驚いたことにとても好評だった——ルイスはそう明かす。

次に二人は、まったく正反対の方向性となる課題を自らに課した。身体に重きをおく文化の香りを説明する、というものだ。この課題が、ルイスをベルクハインへと導いた。しかし、ルイスは単にクラブの香りを再現したくはなかった——ニュアンスを作り出したいと考えた。出来上がった香りについて、ルイスは「素晴らしいものができあがった」と言う。それは、「女性は好み、男性は好まない」という、嗅いだ者の評価が極端に分かれる香りだったようだ。「一番強いノートは、男性の汗」とルイスは説明する。「その向こうに、香水やコロン、アルコール、燃えたタバコといったノートが顔を出すの。とてもリアルで、ヘビーで、刺激的な香りよ。良い香りを作るつもりなど全くなかったわ」と言ってルイスは笑う。

深く訴えかける香りこそが、ふたりの目指したものだった。「存在感ある香りというものについて、私たちはたくさん語り合った」とルイスは言う。「バックグラウンドで香るものでもなく、脇役でもなく、Occasionに作り出している他の要素と同じだけ主張ある存在感を持たせたかった。音楽やスピーチ、ダンス、ビジュアル構成と同じだけ訴えかける力をね」。香りは、とらえどころがない夢のような存在に思えるかもしれない。しかしとてもパワフルにもなりうる。「たまに、Occasionの来場者からメッセージを受け取ることがあります。来場してから何ヶ月も経って、なんの気なしに着たジャケットに香りが残っていて、Occasionの記憶がまざまざと蘇ってきた、と」とルイスは話す。ひと嗅ぎすれば、ウォッカと整髪料、トイレ、そして高揚感の香りが瞬時にしてあなたをダンスフロアへと引き戻してくれる、そんな香りだ。

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